碁盤の向こうへ 第四部 ― 東京への扉、再会の春 ―
碁盤の向こうへ 第四部 ― 東京への扉、再会の春 ―
中学三年・高校受験の三か月から、高校入学、そして囲碁部での再会まで
第一章 残された三か月
中学三年の冬が近づいていた。
美緒の机の上には、二つのものが並んでいた。高校受験のための参考書と、使い込まれた碁盤の上に置かれた碁石。
どちらも、これからの人生につながっている。
東京の高校へ進みたい。
そして、囲碁の道をさらに深く歩きたい。
玲奈が進んだ高校は、学業のレベルが高く、囲碁部も強かった。何より、玲奈がそこでプロ棋士として新しい一歩を踏み出している。
美緒は、その背中を追いたかった。
だが、父は数学教師、母は音楽教師。二人が何度も言ってきた言葉も忘れてはいない。
美緒はうなずいた。
「分かってる。だから、どっちも諦めない」
受験まで、あと三か月。
美緒は毎朝、学校へ行く前に数学を解き、夜には国語と英語を勉強した。その後、短い時間でも碁盤に向かった。
以前なら、囲碁のためなら何時間でも打ち続けていた。しかし今は違う。
時間をどう使うか。
それもまた、囲碁と同じだった。
第二章 受験勉強と棋譜
一月。
受験勉強は、日に日に厳しくなった。
模試の結果に一喜一憂し、学校では友人たちと進路について話した。美緒も不安がないわけではなかった。
けれど、夜に碁盤を開くと、心が落ち着いた。
ある夜、玲奈から一通の短いメッセージが届いた。
添付されていたのは、玲奈自身の最近の棋譜だった。
美緒は碁盤に棋譜を並べた。
玲奈の碁は以前よりも静かだった。激しく戦っているのに、無理に勝とうとしていない。相手の弱点を追いかけるだけでなく、自分の石の厚みと全体の地合いを見ている。
美緒は一手一手を追った。
そして、ふと祖父の言葉を思い出した。
祖父はもういない。
その寂しさは、まだ消えていなかった。
それでも、美緒は碁石を一つ置いた。
「おじいちゃん。私、もっと強くなるよ」
第三章 最後の三十日
受験まで一か月を切った。
美緒は囲碁の練習時間を少し減らし、その分を受験勉強に回した。
しかし、完全に碁盤から離れることはなかった。
一日十五分。
問題集を終えたあと、祖父から譲り受けた碁盤に向かう。
詰碁を三問解き、棋譜を一局並べる。
たったそれだけでも、毎日続けた。
父はその姿を見ていた。
「囲碁が?」
「いや。自分で自分を律する力がだ」
美緒は笑った。
「それ、先生みたい」
父も笑った。
「教師になりたいなら、こういう力も大事だ」
その言葉が、美緒の胸に残った。
プロ棋士になりたい。
そして、いつか両親のように人に何かを教える仕事もしたい。
まだ二つの夢は、一つの形にはなっていない。
けれど、美緒にはそれでよかった。
第四章 受験の日
朝の空気は冷たかった。
高校受験の日。
美緒は家を出る前、祖父の碁盤に手を触れた。
「行ってきます」
返事はない。
けれど、心の中には祖父の声があった。
試験会場では、難しい問題もあった。
分からない問題に出会ったとき、美緒は深呼吸した。
そして、できる問題から確実に解いた。
囲碁で学んだことだった。
試験が終わった帰り道、夕暮れの空を見上げる。
やるべきことはやった。
あとは結果を待つだけだった。
第五章 合格通知
合格発表の日。
美緒は番号を見つけるまで、何度も掲示板を見直した。
そして、自分の番号を見つけた。
「……あった」
その瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
父と母に電話をすると、母の声が少し震えていた。
父も言った。
美緒は笑った。
「うん。東京で、もっと強くなる」
その夜、祖父の碁盤の前で静かに座った。
「おじいちゃん。合格したよ」
返事はない。
それでも、美緒には祖父が笑っているように思えた。
第六章 東京の春
春。
桜が咲いた。
美緒は新しい制服に袖を通した。
東京の高校。
学業に力を入れる進学校であり、囲碁部も全国大会を目指す強豪だった。
校門をくぐった瞬間、美緒は少しだけ立ち止まった。
ここから先は、自分で選んだ道だ。
教室では新しい友人ができた。
授業は予想以上に速く、課題も多かった。
けれど、美緒は戸惑いながらも食らいついた。
放課後になると、向かう場所は決まっていた。
囲碁部。
第七章 囲碁部の扉
囲碁部の部室には、いくつもの碁盤が並んでいた。
部員たちの石音が、静かに響いている。
パチン。
パチン。
美緒はその音を聞いただけで胸が高鳴った。
顧問の先生に案内され、自己紹介をする。
部員たちが拍手した。
そのときだった。
部室の奥から、一人の女子生徒が立ち上がった。
黒い髪を肩まで伸ばし、以前より少し大人びた表情。
けれど、その目を見た瞬間、美緒には分かった。
「……玲奈先輩?」
女子生徒は、静かに笑った。
時間が一気に戻ってきた。
中学時代、何度も越えようとした背中。
半目で敗れた対局。
夏の大会。
そして、東京へ向かうきっかけになった人。
玲奈は高校一年生になっていた。
そして、プロ棋士になっていた。
第八章 プロになった先輩
部室の隅で、二人は向かい合った。
「本当にプロになったんですね」
美緒が言うと、玲奈は少し照れたように笑った。
「それでも、すごいです」
「美緒もなるんでしょう?」
美緒は一瞬だけ黙った。
そして、まっすぐ玲奈を見た。
「はい。私もプロになります」
玲奈はうなずいた。
美緒の胸が熱くなった。
中学時代には遠かった背中が、今は目の前にある。
しかし、玲奈は以前よりさらに強くなっている。
それが嬉しかった。
追いかける相手がいる。
越えたい相手がいる。
そして、祖父から受け継いだ碁盤がある。
第九章 再会の一局
部員たちが練習対局を始める中、玲奈が碁盤を一つ運んできた。
美緒は碁盤の前に座った。
白と黒の石を確認する。
先輩と後輩。
プロとアマチュア。
そして、かつて何度も戦った二人。
対局が始まった。
玲奈の第一手は、以前とは違っていた。
穏やかで、しかし隙がない。
美緒はすぐに気づいた。
「強くなってる……」
玲奈は笑った。
中盤、美緒は右辺で一つの石を犠牲にした。
以前の美緒なら、その石を必死に助けていた。
しかし今は違う。
一石を捨て、その代わりに中央へ厚みを作る。
祖父から学んだ一手。
玲奈から教わった一手。
そして、自分自身が身につけた一手。
玲奈の表情が変わった。
美緒は答えた。
玲奈は黙って石を置いた。
パチン。
美緒も置く。
パチン。
二人の間に、懐かしい緊張感が戻ってきた。
第十章 新しい春、次の一手
対局は長く続いた。
最後まで勝敗は分からなかった。
そして、終局。
玲奈が盤面を見つめ、美緒も静かに数えた。
結果は、わずかな差だった。
玲奈の勝ち。
しかし、昔のような大差ではなかった。
玲奈は碁盤を見ながら言った。
美緒は首を振った。
玲奈は笑った。
部室の窓から、春の風が入ってきた。
桜の花びらが一枚、碁盤の脇に落ちた。
美緒はそれを拾った。
祖父のことを思った。
本因坊秀策への憧れを思った。
そして、目の前にいる玲奈を見た。
東京に来た理由は、ただ一つではない。
プロ棋士になるため。
両親のように、いつか人を育てるため。
そして、いつか本因坊を目指すため。
そのすべてを、これから自分の手でつかんでいく。
美緒は碁盤に黒石を一つ置いた。
パチン。
新しい春の、一手だった。
第四部・終
祖父を越えた少女は、祖父の死を胸に刻み、受験という最初の大きな壁も越えた。
東京で待っていたのは、かつてのライバルであり、今はプロ棋士となった玲奈。
追いかける背中は、まだ遠い。
けれど、美緒はもう、その背中をただ見つめるだけの少女ではない。
次に目指すのは、プロへの道。
そして、その先にある本因坊。
――美緒の碁は、東京で新しい物語を打ち始めた。
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