万座の夏、僕が僕を選ぶまで 第二章 母の故郷
母の故郷
機内の窓から見える雲海を、 アルフレッドはぼんやり眺めていた。
隣には母の恵子が座っている。
成田行きの飛行機。
本来なら夏休みも研究を進める予定だった。 共同研究先とのミーティングもあった。 論文の修正作業も残っていた。
だが母は半ば強引に予定を空けさせた。
その言葉に押し切られた形だった。
正直なところ、 アルは気が進まなかった。
祖父母に会うのは幼い頃以来だったし、 日本語も話せない。
そもそも二週間も研究から離れることに 妙な不安があった。
メールを返していない。 進捗確認もできていない。
共同研究先から催促が来るかもしれない。
そんなことばかり考えていた。
成田空港から長い移動が始まった。
電車。 新幹線。 レンタカー。
東京の高層ビル群が遠ざかる。
やがて景色は山へ変わっていった。
緑が濃くなる。
山が近くなる。
都会の景色はいつの間にか消えていた。
アルは車窓を見つめる。
スタンフォード周辺の風景とは全く違った。
道路脇に広がる森。
勢いよく流れる川。
小さな集落。
古い神社。
窓を少し開けると、 冷たい風が流れ込んできた。
木々の匂いがした。
土の匂いも混じっていた。
アルは少しだけ驚く。
自然の匂いを、 こんなにはっきり感じたのは久しぶりだった。
母が笑った。
山道をさらに登る。
標高が上がるにつれて空気が変わっていった。
冷たい。
そしてどこか硫黄の香りがする。
アルは窓の外を見る。
霧の向こうに、 古い木造建築が現れた。
大きな瓦屋根。
歴史を感じさせる門。
木製の看板。
その看板には、 『神崎温泉旅館』 と書かれていた。
母の実家だった。
車が止まる。
次の瞬間。
旅館の玄関から一人の女性が飛び出してきた。
白髪混じりの髪。 小柄な体。
祖母だった。
日本語だった。
だが感情だけは伝わる。
祖母はそのまま抱きしめてきた。
アルは少し戸惑う。
研究室では絶対に起きない出来事だった。
その後ろから祖父がゆっくり歩いてくる。
日に焼けた顔。 大きな体格。
無口そうな老人だった。
その短い言葉に、 なぜか胸が少し温かくなる。
祖父は肩を軽く叩いた。
まるで昨日まで一緒にいたような自然さだった。
旅館の中は木の香りで満ちていた。
磨き上げられた廊下。
年代を感じる柱。
壁には古い写真が飾られている。
昭和初期。 戦後直後。 旅館の歴史が並んでいた。
どこか懐かしい。
初めて来たはずなのに、 そんな感覚があった。
ロビーの窓からは山々が見える。
雲が近い。
風が木々を揺らしている。
アルは思わずスマホを取り出した。
メール通知は三十件以上。
共同研究の連絡が並んでいる。
だが不思議だった。
今は返信する気になれなかった。
それよりも窓の外が気になった。
鳥の鳴き声。
澄んだ空気。
遠くの山並み。
それらが、 彼の知らない世界のように見えた。
夕方。
旅館の裏手を散歩していた時だった。
草むらの向こうから笑い声が聞こえる。
数人の子供たちが自転車を並べていた。
真ん中にいる少女が目に入る。
短く結んだ髪。
日に焼けた肌。
元気そうな雰囲気。
年齢は自分と同じくらいだろう。
少女は何かを話しながら笑っていた。
その笑顔が妙に印象に残った。
すると少女もこちらに気付く。
目が合う。
お互い数秒見つめる。
少女は首を傾げた。
アルも何も言えない。
日本語が分からないからだ。
やがて少女は友達に何かを言う。
そして再びアルを見た。
少し興味深そうな表情だった。
それが。
真由との最初の出会いだった。
そしてアルはまだ知らない。
この少女が、 自分の人生を大きく変える存在になることを。
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