万座の夏、僕が僕を選ぶまで 第二章 母の故郷

第二章 母の故郷
第二章

母の故郷

機内の窓から見える雲海を、 アルフレッドはぼんやり眺めていた。

隣には母の恵子が座っている。

成田行きの飛行機。

本来なら夏休みも研究を進める予定だった。 共同研究先とのミーティングもあった。 論文の修正作業も残っていた。

だが母は半ば強引に予定を空けさせた。

「今年は絶対に日本へ行くの」

その言葉に押し切られた形だった。

正直なところ、 アルは気が進まなかった。

祖父母に会うのは幼い頃以来だったし、 日本語も話せない。

そもそも二週間も研究から離れることに 妙な不安があった。

メールを返していない。 進捗確認もできていない。

共同研究先から催促が来るかもしれない。

そんなことばかり考えていた。

* * *

成田空港から長い移動が始まった。

電車。 新幹線。 レンタカー。

東京の高層ビル群が遠ざかる。

やがて景色は山へ変わっていった。

緑が濃くなる。

山が近くなる。

都会の景色はいつの間にか消えていた。

アルは車窓を見つめる。

スタンフォード周辺の風景とは全く違った。

道路脇に広がる森。

勢いよく流れる川。

小さな集落。

古い神社。

窓を少し開けると、 冷たい風が流れ込んできた。

木々の匂いがした。

土の匂いも混じっていた。

アルは少しだけ驚く。

自然の匂いを、 こんなにはっきり感じたのは久しぶりだった。

「もうすぐよ」

母が笑った。

山道をさらに登る。

標高が上がるにつれて空気が変わっていった。

冷たい。

そしてどこか硫黄の香りがする。

アルは窓の外を見る。

霧の向こうに、 古い木造建築が現れた。

大きな瓦屋根。

歴史を感じさせる門。

木製の看板。

その看板には、 『神崎温泉旅館』 と書かれていた。

母の実家だった。

* * *

車が止まる。

次の瞬間。

旅館の玄関から一人の女性が飛び出してきた。

白髪混じりの髪。 小柄な体。

祖母だった。

「アルちゃーん!」

日本語だった。

だが感情だけは伝わる。

祖母はそのまま抱きしめてきた。

アルは少し戸惑う。

研究室では絶対に起きない出来事だった。

その後ろから祖父がゆっくり歩いてくる。

日に焼けた顔。 大きな体格。

無口そうな老人だった。

「大きくなったな」

その短い言葉に、 なぜか胸が少し温かくなる。

祖父は肩を軽く叩いた。

まるで昨日まで一緒にいたような自然さだった。

* * *

旅館の中は木の香りで満ちていた。

磨き上げられた廊下。

年代を感じる柱。

壁には古い写真が飾られている。

昭和初期。 戦後直後。 旅館の歴史が並んでいた。

どこか懐かしい。

初めて来たはずなのに、 そんな感覚があった。

ロビーの窓からは山々が見える。

雲が近い。

風が木々を揺らしている。

アルは思わずスマホを取り出した。

メール通知は三十件以上。

共同研究の連絡が並んでいる。

だが不思議だった。

今は返信する気になれなかった。

それよりも窓の外が気になった。

鳥の鳴き声。

澄んだ空気。

遠くの山並み。

それらが、 彼の知らない世界のように見えた。

* * *

夕方。

旅館の裏手を散歩していた時だった。

草むらの向こうから笑い声が聞こえる。

数人の子供たちが自転車を並べていた。

真ん中にいる少女が目に入る。

短く結んだ髪。

日に焼けた肌。

元気そうな雰囲気。

年齢は自分と同じくらいだろう。

少女は何かを話しながら笑っていた。

その笑顔が妙に印象に残った。

すると少女もこちらに気付く。

目が合う。

お互い数秒見つめる。

少女は首を傾げた。

アルも何も言えない。

日本語が分からないからだ。

やがて少女は友達に何かを言う。

そして再びアルを見た。

少し興味深そうな表情だった。

それが。

真由との最初の出会いだった。

そしてアルはまだ知らない。

この少女が、 自分の人生を大きく変える存在になることを。

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