夏の札に、君を追う
夏の札に、君を追う
――双子の弟が、兄と幼馴染の背中を追いながら、自分の一枚をつかむ物語
第一章 四月――兄のいない畳
四月。
大学の入学式が終わった東京には、まだ春の冷たさが少し残っていた。
僕――桐生蓮は、東京大学法学部の一年生になった。
双子の兄、桐生怜は同じ東京大学の医学部一年。僕たちは同じ日に生まれ、同じ家で育ち、同じ学校の制服を着てきた。それなのに、大学に入った瞬間から、僕たちの進む道は少しずつ別れていった。
兄は医学の道へ。
僕は法律の道へ。
そして、もう一人。
水野紗季。
僕たちの幼馴染で、教育学部の一年生になった女の子だ。
僕たち三人には、幼いころから共通するものがあった。
競技かるた。
両親は二人とも医師だった。大学病院で働いていて、僕たちが小さいころから家にいないことが多かった。
だから、家に残るのは僕と兄、そして近所に住んでいた紗季だった。
三人で畳に座り、札を並べる。
誰かが読み手になり、誰かが札を払う。
夕暮れになっても、三人は夢中になっていた。
高校時代、僕たちは都内有数の進学校のかるた部に所属していた。
三人ともA級。
ただし、そこに至る時間は違った。
兄は僕より二年早くA級になった。
紗季は兄とほぼ同じ時期にA級へ上がった。
僕がA級になったのは、それから二年後だった。
高校最後の夏。
僕たちは近江で行われた全国大会で、あと一歩のところまで行った。
決勝。
あと一枚。
あと一枚が取れれば、優勝だった。
けれど、最後に札を取ったのは相手だった。
準優勝。
兄は高校を卒業すると、かるたをやめた。
大学では医学の勉強に集中すると決めたのだ。
そして僕は、大学のかるた部の門をくぐった。
紗季も教育学部から同じ部に入った。
僕たちは、夏の団体戦でレギュラーを取るために、もう一度同じ畳の上に立つことになった。
兄はいない。
それなのに、僕はまだ兄の背中を追っている。
いつか倒したい。
子どものころから、ずっとそう思っていた。
そしてもう一つ。
紗季に、僕のかるたを認めてほしい。
それが、僕が口にできない願いだった。
第二章 五月――三人の距離
五月になると、大学のかるた部は一気に熱を帯びた。
新入生が入り、夏の団体戦に向けたレギュラー争いが始まったからだ。
「蓮、昨日より取りが速くなったね」
練習のあと、紗季が言った。
僕は笑った。
「そう?」
本当は、その一言だけで一日中嬉しかった。
紗季は強かった。
読みを聞いた瞬間の反応、相手の手の動きを読む力、送り札の判断。
高校時代、兄と何度も互角の勝負をしていた。
僕にとって紗季は、兄の次に遠い存在だった。
いや。
もしかしたら、兄以上に遠かった。
兄には「いつか倒す」という明確な目標がある。
でも紗季には、それだけではなかった。
好きなのだ。
いつからか、それを自覚していた。
練習中、紗季が札を払う姿を見るだけで胸が高鳴った。
それ以上に、僕の取りを見てほしかった。
「今の、よかったよ」
その一言が欲しかった。
けれど、紗季の視線が時々向かう先を、僕は知っていた。
兄だ。
「怜くん、今どうしてるかな」
紗季がそう言ったとき、胸の奥が少しだけ痛んだ。
兄は医学部の授業と実習で忙しい。
それでも紗季は兄の話をするとき、少しだけ表情が柔らかくなる。
僕には分かってしまった。
紗季は、兄が好きなんだ。
それでも、僕は何も言わなかった。
第三章 六月――レギュラー争い
六月。
団体戦のメンバー選考が近づいていた。
部内戦は厳しかった。
大学のかるた部には全国大会経験者も多く、A級だからといってレギュラーになれるわけではない。
僕は自分の武器を見直した。
速い取り。
終盤の勝負強さ。
そして、相手の癖を読むこと。
一方で弱点もあった。
序盤に焦ると、手が浮く。
相手の速さにつられると、自分のリズムを失う。
紗季は違った。
彼女は静かだった。
速い札でも、遅い札でも、自分の呼吸を崩さない。
ある日の部内戦。
僕と紗季が対戦した。
「お願いします」
札が並ぶ。
読み手の声が響く。
一枚。
二枚。
三枚。
序盤、僕が先行した。
紗季の反応が一瞬遅れた。
「取った!」
僕の手が札に触れた。
胸が熱くなった。
認めてもらえるかもしれない。
しかし、そこから紗季は変わった。
相手陣を攻め、こちらの守りを崩す。
送り札で僕の意識を動かし、読みの前から僕の手を誘導する。
気がつけば、点差は逆転していた。
最後の一枚。
僕が先に動いた。
しかし、空振りだった。
紗季の手が札を払った。
「……参りました」
紗季は札を整えながら言った。
「蓮、強くなったね」
僕は顔を上げた。
「本当に?」
「うん。高校のころとは全然違う」
その言葉だけで、負けた悔しさが少し薄れた。
でも、その直後。
「怜くんにも見せたら、きっと喜ぶと思う」
胸の奥が、また痛んだ。
やっぱり、兄なんだ。
第四章 七月――兄との一局
夏休み前。
久しぶりに家族四人がそろった。
両親は相変わらず忙しく、夕食の時間だけが貴重だった。
その夜、兄が僕に言った。
「蓮。久しぶりにやるか?」
兄が取り出したのは、古い札だった。
僕たちが子どものころから使っていた札。
僕は黙って畳に座った。
「本気でいい?」
兄は笑った。
「もちろん」
読みが始まった。
最初の数枚は互角だった。
僕は驚いた。
兄は、かるたをやめている。
それなのに、こんなに強い。
兄は医学部の勉強で忙しく、もう練習していない。
それでも身体は札を覚えていた。
中盤。
僕が二枚連取した。
「おお」
兄が笑う。
「今のはいいな」
僕は初めて、兄と対等に戦えている気がした。
終盤。
残り札は三枚。
兄が一枚取る。
僕が一枚取る。
最後の一枚。
読み手の声。
一瞬。
僕の手が伸びた。
兄の手と同時だった。
札が飛ぶ。
僕が取っていた。
「……勝った」
兄はしばらく黙ったあと、笑った。
「やっとだな」
僕は兄を見た。
「ずっと、兄さんを倒したかった」
「知ってたよ」
兄は静かに答えた。
「でも、蓮。俺を倒したことより、自分のかるたを作れ」
その言葉が、心に残った。
翌日、紗季が家に来た。
三人で昔のように畳を囲む。
紗季は兄との勝負のことを聞いた。
「蓮、勝ったの?」
「うん」
紗季は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「じゃあ、次は私だね」
僕は笑った。
でも、胸の奥には別の思いがあった。
いつか、紗季にも勝ちたい。
そして、僕自身を見てほしい。
第五章 八月――夏の大会
八月。
全国大会の季節が来た。
今年の目標は明確だった。
優勝。
高校時代、近江で逃した頂点を、今度こそ取りに行く。
僕たちは団体戦のレギュラーに選ばれた。
紗季もレギュラーだった。
僕は嬉しかった。
しかし、大会初日から厳しい試合が続いた。
相手は強豪校。
一人が崩れれば、全体が崩れる。
僕は序盤、焦った。
相手の速さについていこうとして、自分のリズムを失いかけた。
そのとき、隣の紗季から声が飛んだ。
「蓮、自分のかるた!」
僕は目を閉じた。
一度、呼吸する。
兄の言葉を思い出した。
自分のかるたを作れ。
読み手の声。
一枚。
僕の手が伸びた。
取った。
次も取った。
三枚目。
相手陣へ攻める。
札が飛んだ。
会場がざわめく。
僕の流れが戻った。
チームも勝った。
二回戦、三回戦、準々決勝。
勝ち上がるたびに、僕たちの結束は強くなっていった。
そして準決勝。
相手は昨年の優勝チームだった。
僕の対戦相手はA級の強豪。
試合は終盤までもつれた。
残り二枚。
一枚は自陣。
一枚は相手陣。
僕は相手陣を攻めると決めた。
読み。
札が読まれた瞬間、身体が動いた。
勝った。
その一枚が決勝点になった。
チームは決勝進出を決めた。
紗季が僕のところへ走ってきた。
「蓮!」
「やったな」
「うん!」
彼女は笑っていた。
その笑顔を見て、僕も笑った。
今だけは、兄のことを考えなくていい。
僕たち三人の夏だ。
第六章 九月――最後の一枚
九月。
夏の大会、決勝。
会場には強豪チームが集まり、張り詰めた空気が漂っていた。
僕たちは畳の前に座った。
高校時代の近江。
あのときは準優勝だった。
今度こそ。
試合は激戦になった。
僕たちのチームは先行した。
しかし、相手も追いつく。
中盤を終えて、ほぼ互角。
そして終盤。
紗季が連取した。
僕も続いた。
チーム全体が一つになる。
残り札が少なくなる。
僕の前には、あと二枚。
相手にも二枚。
読み手が息を吸う。
僕は札を見る。
不思議と、怖くなかった。
昔なら兄のことを考えていた。
兄ならどう取るか。
兄ならどこを見るか。
でも、今は違った。
僕は僕のかるたをする。
読みが始まった。
一音。
僕の身体が反応する。
手が伸びる。
札が飛んだ。
取った。
会場が沸いた。
残り一枚。
勝敗を決める一枚だった。
僕は目を閉じた。
幼いころの畳。
兄と紗季と三人で過ごした夕方。
両親が帰ってくるまで、何度も札を取り合った日々。
高校時代の近江。
兄に憧れた日。
A級になった日。
紗季に認めてもらいたいと思った日。
すべてが、一つの線につながった。
読み手の声が響く。
僕は動いた。
相手も動いた。
一瞬の差。
僕の手が札に触れた。
札が飛んだ。
静寂。
そして――。
「勝ち!」
仲間の声が響いた。
僕たちは優勝した。
僕は畳の上で、しばらく動けなかった。
涙が出た。
悔し涙ではない。
ようやく、ここまで来たという涙だった。
試合後、紗季が僕のところへ来た。
「蓮」
「ん?」
「今日のかるた、すごくよかった」
僕は彼女を見る。
「……本当に?」
「うん。もう、怜くんを追いかけてるだけじゃないね」
その言葉に、胸が熱くなった。
「ありがとう」
紗季は少し笑った。
「これからも、よろしくね」
僕も笑った。
兄を倒すことだけが目標だった。
紗季に認めてもらうことだけを考えていた。
けれど、この夏を越えて、僕は初めて気づいた。
大切なのは、誰かの背中を追い続けることではない。
自分の足で畳に立ち、自分の手で札を取り、自分だけのかるたを作ることだ。
大会が終わり、秋の風が吹き始めていた。
大学へ戻る電車の中で、僕は兄にメッセージを送った。
「優勝した」
しばらくして返信が来た。
「おめでとう。もう俺を追い越したな」
僕は画面を見ながら笑った。
違うよ、兄さん。
これからだ。
そして、隣の席では紗季が窓の外を見ていた。
秋の空は高かった。
僕たちの新しい季節も、始まろうとしていた。
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