万座の夏、僕が僕を選ぶまで 外伝第五部 最後の遺言
外伝第五部 最後の遺言
― リチャード・神崎の最期 ―
万座高原から戻って一か月後。
神崎家に一本の電話が入った。
ニューヨークの病院からだった。
祖父リチャード・神崎の容態が急変したという。
ジョナサンは何も言わず電話を切った。
そして静かに立ち上がる。
「ニューヨークへ行く。」
アルは父の表情を見た。
いつもより少しだけ老けて見えた。
二日後。
神崎家は再びニューヨークへ集まった。
病室には祖母、 親族、 事務所の共同経営者たちが集まっていた。
神崎法律事務所。
百年以上続く一族の象徴。
祖父が人生を捧げて守ってきた城だった。
病室は静かだった。
祖父は痩せていた。
かつて法廷で相手を震え上がらせた男とは思えない。
それでも目だけは昔のままだった。
鋭く、 強かった。
祖父がゆっくり目を開く。
そして最初に見たのはジョナサンだった。
「来たか。」
「来ました。」
「逃げなかったな。」
ジョナサンは少し苦笑した。
「逃げる年齢は過ぎました。」
祖父の視線が移る。
アレックス。
アル。
そして恵子。
全員の顔をゆっくり見ていく。
やがて祖父は言った。
「家族が増えたな。」
アルは驚いた。
祖父がそんな言葉を言うとは思わなかった。
その日の午後。
祖父は弁護士たちを病室に呼んだ。
遺言執行のためだった。
病室に緊張が走る。
全員が知っている。
今日決まるのだ。
神崎法律事務所の未来が。
弁護士が書類を開く。
「当主リチャード・神崎の意思を確認します。」
親族全員が息を飲む。
誰もがジョナサンの名前を予想していた。
あるいはアレックス。
だが。
祖父は首を振った。
「違う。」
病室がざわつく。
祖父は静かに続けた。
「誰にも継がせない。」
全員が凍り付いた。
共同経営者が立ち上がる。
「何をおっしゃるのですか。」
「事務所は一族の誇りです。」
「百年の歴史があります。」
祖父は答える。
「知っている。」
「だから終わらせる。」
「え?」
誰も理解できなかった。
祖父はアレックスを見る。
「お前は会社を持っている。」
アルを見る。
「お前はお前の人生がある。」
ジョナサンを見る。
「お前はようやく家族を見つけた。」
そして言った。
「もう十分だ。」
病室は静まり返る。
祖父は続ける。
「私は間違えた。」
誰も話さない。
今まで誰も聞いたことがない言葉だった。
祖父が間違いを認めたのだ。
「勝ち続けろと言った。」
「負けるなと言った。」
「神崎の名を守れと言った。」
ゆっくり息を吐く。
「でもな。」
「家族を失った。」
ジョナサンが目を閉じる。
アレックスも下を向く。
祖父は震える声で続けた。
「仕事は残った。」
「金も残った。」
「だが、一緒に夕食を食べる時間は残らなかった。」
アルの胸が熱くなる。
祖父は恵子を呼んだ。
「恵子。」
「はい。」
「すまなかった。」
恵子は目を丸くする。
「何をですか。」
「お前との結婚を反対した。」
「ジョナサンにはもっと良い相手がいると思っていた。」
祖父は少し笑った。
「だが今は分かる。」
「お前が一番良かった。」
恵子の目から涙がこぼれた。
夜。
病室には家族だけが残った。
祖父は静かにアルを呼ぶ。
「アル。」
「はい。」
「万座は楽しかったか。」
アルは少し笑った。
「人生で一番楽しかった。」
祖父も少しだけ笑う。
「そうか。」
「なら良かった。」
「神崎家にも一人くらいそういう人間が必要だ。」
最後に祖父はジョナサンを見た。
「息子。」
ジョナサンが近づく。
「はい。」
「すまなかった。」
ジョナサンの顔が歪む。
人生で一度も聞いたことのない言葉だった。
父から。
初めての謝罪だった。
ジョナサンは何も言えなかった。
ただ祖父の手を握る。
そして小さく答えた。
「ありがとうございました。」
その翌朝。
リチャード・神崎は静かに息を引き取った。
九十一年の人生だった。
法を守り。
勝ち続け。
最後に。
家族を取り戻した人生だった。
数日後。
ニューヨークの教会。
葬儀が行われる。
帰り道。
アレックスが言う。
「事務所、本当に閉じるのか。」
ジョナサンは首を振った。
「閉じない。」
「え?」
「家族のための事務所に変える。」
アレックスが驚く。
ジョナサンは続けた。
「勝ち続けるための場所じゃない。」
「困っている人を助ける場所にする。」
「父もそれを望んでいると思う。」
アルは微笑んだ。
祖父の遺したものは、 法律事務所ではなかった。
家族だった。
◇ 外伝第五部 最後の遺言 終 ◇
そして神崎家の物語は、 新しい時代へ続いていく。
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