碁盤の向こうへ 第三部 ― 追いかける背中、受け継ぐ一手 ―

碁盤の向こうへ 第三部 ― 追いかける背中、受け継ぐ一手 ―

碁盤の向こうへ 第三部
― 追いかける背中、受け継ぐ一手 ―

中学二年・春から夏の大会まで

第一章 中学二年の春――追いかける背中

春の出雲大社参道には、まだ冷たい風が残っていた。

中学二年生になった美緒は、学校へ向かう途中、いつものように大きな鳥居を見上げた。小学生のころから何度も歩いた道だった。しかし、その春だけは、景色が少し違って見えた。

一年間、囲碁部で戦った三年生の玲奈が卒業したからだ。

玲奈は東京の名門進学校へ進学した。勉強だけでも難関とされる学校だったが、そこには全国レベルの囲碁部もある。そして玲奈は、厳しいプロ試験の世界を勝ち抜き、プロ棋士となった。

美緒にとって、玲奈はもう「一歩先を歩く先輩」ではない。プロの世界を歩き始めた、本物の棋士だった。

「玲奈先輩が行った道……私も行く」

その言葉を口にすると、不思議と胸の奥が熱くなった。

美緒には二つの目標があった。ひとつはプロ棋士になること。もうひとつは、父と母のような教員になることだった。

まだ十四歳。二つの夢をどう両立するのか、答えは出ていない。それでも、どちらも本気だった。

第二章 両親と同じ道

その夜、美緒は両親に自分の決意を話した。

「高校は東京の囲碁が強い進学校を目指したい。玲奈先輩の後を追いたい」

父は数学教師らしく、しばらく黙って考えた。

「受験までまだ時間はある。でも、今から準備するのは悪くない。勉強も囲碁も、毎日の積み重ねだからな」

母も微笑んだ。

「そして、先生になりたいという気持ちも大切にしなさい。教える人になることと、囲碁を極めることは、いつかつながるかもしれないわ」

美緒はうなずいた。

父は数学を教える。母は音楽を教える。二人とも、生徒の成長を見守る仕事をしている。

美緒は思った。

強い人になるだけではなく、人を育てられる人になりたい。

それが、両親から受け継ぎたいもう一つの道だった。

第三章 玲奈の棋譜

五月のある日、玲奈から一通の手紙が届いた。

封筒の中には、プロとして打った一局の棋譜が入っていた。

美緒は碁盤を出し、静かに石を並べた。

序盤は穏やかだった。しかし中盤、玲奈は右上の石をあえて捨てた。

相手は当然、その石を取る。

ところが、取った瞬間に玲奈の中央の厚みが大きく働き始めた。

「捨て石……。前に教えてもらったものと同じ。でも、深さが全然違う」

美緒は棋譜を一手戻した。

そして、もう一度進める。

一手前では損に見える。三手先でもまだ分からない。十手近く進んで、ようやく全体の意味が見えてくる。

玲奈はプロになった。

そして美緒は、その棋譜を通して初めて、プロの世界の高さを実感した。

「待っていてください、玲奈先輩。私もそこへ行きます」

第四章 祖父との最後の対局

六月の休日。祖父がいつものように古い碁盤を出した。

「美緒。今日は久しぶりに本気で打つか」
「うん。今日は、勝つよ」

祖父は笑った。

「言うようになったな」

対局が始まった。

祖父は中央を厚くし、美緒は辺を広く取った。中盤になると、祖父が美緒の右辺へ鋭く切り込んできた。

以前なら、美緒はその石を必死に逃がしていた。

しかし今日は違った。

一石を助けることより、盤全体を取る。

美緒は石を一つ捨てた。

祖父はその石を取った。

その瞬間、美緒は中央へ先手を取り、左辺を大きくまとめた。

祖父の厚みは強い。しかし、美緒はその厚みに正面からぶつからなかった。

終盤。二人は静かにヨセを続けた。

最後の石が置かれ、祖父が盤面を数える。

長い沈黙のあと、祖父が顔を上げた。

「……美緒の勝ちだ」
「本当に?」
「ああ。とうとう、わしを越えたな」

美緒の目に涙が浮かんだ。

祖父はそんな美緒を見て、穏やかに笑った。

「これで安心した。わしの先まで、お前が行ける」

その言葉が、最後の一手になるとは、美緒は知らなかった。

第五章 祖父のいない夏

それから間もなく、祖父は亡くなった。

家の中から、いつも聞こえていた碁石の音が消えた。

カチッ、カチッ、と響いていた音がない。

美緒はしばらく碁盤を見ることさえできなかった。

自分は祖父を超えた。

それは嬉しいことだったはずなのに、勝利を報告する相手は、もういなかった。

ある夜、美緒は一人で碁盤を出した。

黒石を一つ置く。

カチッ。

その音を聞いた瞬間、涙がこぼれた。

「おじいちゃん……私、もっと強くなる」
「おじいちゃんが教えてくれたことを、ずっと持っていく」
「そして、プロ棋士になる」

悲しみは消えなかった。

けれど、美緒はもう碁盤から逃げなかった。

祖父を超えたことは、祖父を忘れることではない。

祖父から受け取ったものを、さらに遠くへ運ぶことなのだ。

第六章 本因坊への憧れ

夏の練習が始まると、美緒は本因坊秀策の棋譜を以前より深く研究するようになった。

子どものころは、ただ強い棋士だから憧れていた。

今は違う。

秀策の一手を見て、その意味を考える。

なぜここで戦わないのか。なぜここで厚みを選ぶのか。なぜ小さな利益を捨てて、盤全体の主導権を取るのか。

碁盤を見つめながら、美緒は祖父の言葉を思い出した。

「碁は石を取るゲームじゃない。盤全体を見るゲームだ」

本因坊秀策。

祖父。

玲奈。

三人の背中が、美緒の中で一本につながっていく。

「いつか、本因坊を目指せる棋士になりたい」

それは、もう子どもの夢ではなかった。

プロになった先にある、果てしなく高い目標だった。

第七章 高校受験への準備

中学二年生の夏。高校入試そのものはまだ先だが、美緒は志望校を絞り始めた。

東京の進学校。そして、囲碁の強豪校。

玲奈が進んだ学校と同じように、勉強と囲碁の両方に打ち込める場所を目指した。

朝は英語と数学。

学校では授業に集中する。

放課後は囲碁部。

帰宅したら宿題と復習。

夜には棋譜を一局並べる。

以前より忙しくなった。

それでも、美緒は苦しいとは思わなかった。

「玲奈先輩も、こうやって毎日を積み重ねたんだ」

受験はまだ一年先。しかし、その一年をどう過ごすかで未来は変わる。

美緒は、勉強も囲碁も「明日から」ではなく「今日から」と決めた。

第八章 夏の大会――エースの碁

夏の大会の日が来た。

美緒は第一盤。真帆が第二盤、健太が第三盤。

昨年、あと一歩届かなかった優勝を、今年こそつかむ。

「三人で勝とう」
「もちろん!」

初戦、美緒は相手の攻撃を受けながら、中央に厚みを作った。相手が攻めに集中したところで右辺を大きく荒らし、最後は先手のヨセを重ねて勝った。

二回戦では、相手の強い石に無理に戦いを挑まなかった。

一石を軽く捨てる。

相手が取る。

その代わりに、美緒は盤の反対側で大きな地を得た。

その碁を見ていた真帆が言った。

「美緒、前よりずっと冷静になったね」
「うん。おじいちゃんに教えてもらったから」

第九章 決勝――受け継いだ一手

決勝の相手は県内でも有数の強豪校だった。

美緒の相手は、攻めの強い選手だった。

序盤から激しい戦いが始まる。

相手は美緒の右辺を切断した。

美緒は一瞬だけ迷った。

しかし、次の瞬間には決めていた。

全部を助ける必要はない。

一石を捨てる。

相手が取る。

その瞬間、美緒は中央へ先手を打った。

厚みが生まれる。

相手の弱い石が浮き上がる。

美緒は追いかけた。

しかし、取りに行きすぎない。

弱い石を攻めながら、自分の地を増やしていく。

終盤、盤面はほぼ互角だった。

時計を見る。

残り時間は少ない。

美緒は深く息を吸った。

祖父の碁盤。

玲奈の棋譜。

秀策の棋譜。

そして、ここまで一緒に戦ってきた真帆と健太。

すべてが、この一局につながっている。

最後のヨセを打ち終える。

審判が数える。

「半目差。美緒さんの勝ちです」

美緒は静かに目を閉じた。

第一盤は取った。

だが、団体戦はまだ終わっていない。

第十章 三人の夏、そして東京へ

第二盤の真帆は、最後まで粘って勝利した。

第三盤の健太は惜しくも敗れた。

結果は二勝一敗。

チームは優勝した。

「やったな!」
「三人で取った優勝だよ」

美緒は二人と握手した。

表彰式が終わると、夏の空はどこまでも青かった。

美緒は空を見上げた。

祖父はもういない。

玲奈は東京でプロ棋士として戦っている。

そして自分は、まだ中学二年生だ。

高校受験もある。

勉強もある。

プロへの道は、これからさらに厳しくなる。

それでも、怖くはなかった。

「おじいちゃん。私、ここからもっと先へ行くね」

そして、心の中で玲奈にも告げる。

「玲奈先輩。私も東京へ行きます。いつか同じ場所で戦います」

さらに、その先を見る。

本因坊。

それは遠い遠い頂だった。

しかし、目標が遠いからこそ、今日の一手に意味がある。

少女は、祖父を超えた。
そして、祖父の死を乗り越えた。

受け継いだ碁を、次の世代へ。
玲奈の背中を追い、東京へ。
プロ棋士になるために。
そしていつの日か、本因坊を目指すために。

美緒の本当の勝負は、ここから始まる。

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