風になれ
風になれ
京都府立高校に通う高校二年生・神谷蓮。身長一八七センチ、細身の九頭身。 中学時代はバレーボール部だったが、高校入学を機に陸上競技を始めた。 その長い脚と身体能力を武器に、わずか一年あまりで一〇〇メートルのスプリンターとして頭角を現す。 しかし、蓮にはもう一つの大きな目標があった。父の跡を継ぎ、医師になること。 勉強も陸上も決して妥協しない蓮は、いつしか自分自身を追い込みすぎていた。 そして夏――。全国の頂点を目指すインターハイの舞台で、蓮は自分自身と向き合うことになる。
第一章 夏の京都
朝六時。
京都の夏は、朝から容赦がない。
東山の向こうから太陽が顔を出すころには、路面からゆらゆらと陽炎が立ち始めていた。 蝉の声が街を覆い、鴨川の水面だけが、そんな暑さを知らないように静かに光っている。
神谷蓮は、京都府立高校のグラウンドを一人で走っていた。
一八七センチの長身。細身で、腕も脚も長い。 中学時代にはバレーボール部で、スパイクを打つことが何より好きだった。
だが、高校に入ってから、彼の世界は変わった。
百メートル。
たった十数秒の世界。
そこには、相手も、ボールも、味方もいない。 スタートラインからゴールまで、自分の身体だけを信じて走る。
「……あと一本」
蓮はスタートラインに戻った。
すでに五本走っている。
呼吸は荒い。それでも、時計を見る。
十秒台。
高校二年生になったばかりの頃、初めて一〇秒台を記録した。 そこから蓮の人生は、一気に加速した。
京都府大会。そして近畿大会。
その先に待っていたのが、夏のインターハイだった。
「全国で、勝つ」
それが蓮の目標だった。
けれど、彼にはもう一つの目標がある。
医師になること。
父・神谷修一は京都市内で病院を経営する医師。 母・美奈子は弁護士。 姉の葵は京都大学法学部の一年生。
四人家族の中で、蓮だけがまだ進む道を決めきれていなかった。
いや――。
正確には、決めていた。
父のあとを継ぐ。
医学部に入り、医師になる。
そのためには、勉強もしなければならない。
陸上も、やる。
蓮は、どちらも諦めるつもりはなかった。
第二章 貴船の風
その日の午後、蓮は母の実家を訪れていた。
貴船。
京都市街地から北へ向かうと、空気が少しずつ変わっていく。 深い緑に包まれた山道。その間を貴船川が流れ、夏の光が木々の隙間から細く差し込んでいる。
母の実家は、代々、貴船神社の神主を務めてきた家だった。
境内には、街中とはまるで違う時間が流れている。
蓮が石段を上っていくと、祖父が境内の掃除をしていた。
「蓮か」
「うん」
「また走ってきた顔をしているな」
「分かる?」
「分かるさ。お前の祖父だからな」
祖父は笑った。
そして、少しだけ間を置いて言った。
「走ることは、逃げることじゃないぞ」
蓮は黙っていた。
自分でも気づいていた。
陸上の練習を終えると、学校へ戻って勉強する。 勉強が終われば、またトレーニングのことを考える。
睡眠時間を削ってまで、両方を完璧にしようとしていた。
「人間は、二つの道を同時に走ることはできん」
「……」
「だが、一つの道を走りながら、もう一つの道を見失わないことはできる」
蓮は、その言葉の意味をまだ完全には理解できなかった。
ただ、貴船の森を抜ける風が、頬を撫でた。
不思議な風だった。
まるで、背中を押しているようだった。
第三章 限界
インターハイが近づくにつれ、練習は激しくなった。
スタート練習、加速走、ウェイトトレーニング、フォーム確認。
蓮は誰よりも練習した。
そして、誰よりも勉強した。
ある夜、時計は午前一時を回っていた。
机の上には医学部受験用の参考書。
ベッドの横には陸上用のスパイク。
蓮は眠気をこらえながら英単語帳を開いていた。
「あと三十ページ……」
その瞬間、視界が一度、暗くなった。
蓮は机に手をついた。
翌日の練習。
スタート直後、左脚に違和感が走った。
それでも止まらなかった。
百メートルを走り切る。
時計を見る。
自己ベストには届いていない。
コーチが近づいてきた。
「蓮。今日はもう終わりだ」
「まだ走れます」
「そういうところが、お前の強さであり弱さだ」
蓮は唇を噛んだ。
全国で勝つ。
医学部に合格する。
父の跡を継ぐ。
どれも諦めたくない。
だからこそ、無理をしてしまう。
第四章 家族
その夜、家族四人が食卓を囲んだ。
父は黙って蓮を見ていた。
「蓮。医者になりたいのか?」
「うん」
「私の跡を継ぎたいのか?」
「……うん」
「だったら、私の真似をするな」
蓮は顔を上げた。
「医者は、自分を壊してまで患者を救う仕事じゃない。自分を守れない人間に、他人を守ることはできない」
母も静かに頷いた。
姉の葵が笑う。
「蓮、全国大会で走る弟って、ちょっと格好いいじゃん」
「姉ちゃんは気楽でいいよな」
「何言ってるの。私だって司法試験目指してるんだから大変なんだよ」
「……そうだった」
家族全員が笑った。
その笑いの中で、蓮は初めて思った。
「全部を一人で背負わなくてもいいのかもしれない」
第五章 インターハイ
夏。
インターハイの会場は、全国から集まった選手たちの熱気に包まれていた。
百メートル予選。
スタートラインに立った蓮は、静かに前を見た。
隣のレーンには、前年の全国大会で決勝に進んだ選手。
さらにその隣には、今季の全国ランキング上位選手。
強い。
だが、怖くはなかった。
号砲。
蓮の身体が前へ飛び出した。
中学時代、バレーボールのコートを走り回った身体。 高校から始めた陸上で鍛えた脚。 何度も失敗し、何度も立ち上がった時間。
すべてが一本の線になっていた。
六十メートル。
七十。
八十。
残り二十メートル。
蓮は前を見た。
ゴールは近い。
だが、その瞬間――。
風が吹いた。
京都の貴船で感じた、あの風と同じような風だった。
「……風になれ」
誰かに言われたような気がした。
蓮は、さらに身体を前へ倒した。
最後の一歩。
フィニッシュ。
静寂。
そして、電光掲示板に記録が表示された。
自己ベスト。
蓮はその数字を見つめた。
順位だけではない。
自分が、昨日の自分を超えた。
第六章 決勝へ
決勝進出。
その知らせを聞いたとき、蓮は大きく息を吐いた。
スタンドには父と母、そして姉の姿があった。
母は両手を口元に当てている。
父は腕を組みながら、いつものように静かに頷いていた。
姉は大きく手を振っている。
「蓮! 楽しんでこい!」
その言葉が聞こえた。
楽しむ。
蓮は、これまでその言葉を忘れていた。
勝たなければならない。
速くなければならない。
医学部に合格しなければならない。
父を継がなければならない。
いつも「ねばならない」に追われていた。
でも今だけは違う。
百メートルを走る。
ただ、それだけでいい。
最終章 風になれ
決勝。
スタートライン。
八人の選手が並んだ。
会場が静まる。
蓮は目を閉じた。
貴船の森。
鴨川の流れ。
家族の声。
父の言葉。
母の笑顔。
姉の声援。
そして、これまで走ってきたすべての日々。
目を開く。
前だけを見る。
「位置について」
身体を沈める。
「よーい」
静寂。
――号砲。
蓮は飛び出した。
最初の十メートル。
まだ誰が勝つか分からない。
三十メートル。
蓮の長い脚が力強く地面を捉える。
五十メートル。
肩の力を抜く。
六十メートル。
横を見る必要はない。
七十メートル。
八十メートル。
九十メートル。
そして――。
最後の十メートル。
蓮は、自分のすべてを解き放った。
ゴールラインを駆け抜ける。
身体が止まらない。
そのまま数メートル先まで走り、ゆっくり振り返った。
電光掲示板を見る。
順位。
記録。
その数字を見た瞬間、蓮は空を見上げた。
勝ったのか。
負けたのか。
そんなことより先に、胸に浮かんだものがあった。
「走ってきて、よかった」
スタンドから家族の声が聞こえる。
父は立ち上がっていた。
母は泣いていた。
姉は両手を高く掲げていた。
蓮は笑った。
全国の舞台で走った一〇〇メートルは、わずか十数秒だった。
しかし、その十数秒の中には、十七年間の人生が詰まっていた。
中学時代のバレーボール。
高校から始めた陸上。
眠れない夜の勉強。
医学部を目指す決意。
父の背中。
母の強さ。
姉との競争。
貴船の森を吹き抜ける風。
そして、自分自身。
蓮は静かに呟いた。
「これからも、走ろう」
医学部への道は、まだ始まったばかりだった。
陸上選手としての道も、まだ終わっていない。
人生という長い道の先に、何が待っているのかは分からない。
ただ、一つだけ分かっている。
風は、いつも前から吹いてくる。
向かい風のときもある。
追い風のときもある。
それでも走る。
自分の足で。
自分の意思で。
そしていつか――。
自分自身が、風になる。
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