万座の夏、僕が僕を選ぶまで 第六章自分の人生を選ぶ
第六章 自分の人生を選ぶ
万座高原を離れる朝。
旅館の前には祖父母、真由、健一、美香、陸が集まっていた。
アルはスーツケースを持ちながら、何度も振り返った。
帰りたくない。
そんな気持ちになる場所が、自分にできるとは思っていなかった。
真由が腕を組みながら言った。
「ちゃんと来年も来るんでしょ?」
翻訳アプリが英語へ変換する。
アルは少し笑った。
「行きたい。」
「行きたいじゃない。」
「来るの。」
「命令?」
「命令。」
陸が横から言う。
「来なかったら俺がアメリカ行くからな!」
「どうやって?」
「知らん!」
みんなが笑った。
最後に健一が肩を叩く。
「また帰って来い。」
アルは静かにうなずいた。
スタンフォード大学。
夏休みが終わり、いつもの生活が戻ってきた。
研究棟。
会議室。
共同研究。
企業とのミーティング。
周囲の景色は何も変わっていない。
だがアルだけが変わっていた。
会議中、ふと考える。
「これは本当に僕がやりたいことなんだろうか。」
以前なら考えもしなかった疑問だった。
数日後。
アルは教授室を訪れた。
指導教授は少し驚いた顔をする。
「どうしたんだい?」
アルは深呼吸した。
「相談があります。」
「聞こう。」
「研究を減らしたいです。」
教授は黙った。
しばらくして聞く。
「理由は?」
アルは答えた。
「僕は研究が好きです。」
「でも研究しかしてこなかった。」
「友達も欲しい。」
「スポーツもしたい。」
「ただ遊ぶ時間も欲しい。」
教授は静かに聞いていた。
やがて笑った。
「安心したよ。」
「え?」
「やっと十四歳らしいことを言ってくれた。」
アルは呆然とする。
教授は続けた。
「今までの君は三十歳の研究者みたいだった。」
「人生は長い。」
「急ぐ必要はない。」
「研究も大事だ。」
「でも研究だけが人生じゃない。」
その言葉は万座で聞いた言葉と重なった。
放課後。
アルは久しぶりにテニスコートへ向かった。
ラケットを握る。
ボールを打つ。
走る。
汗を流す。
楽しかった。
驚くほど楽しかった。
休憩中、スマホが震える。
真由からだった。
「元気?」
アルは返信する。
「元気。」
「研究どう?」
「少し減らした。」
数秒後。
「えええ!?」
というメッセージが返ってきた。
アルは思わず笑った。
「テニス始めた。」
「嘘つけ。」
「本当。」
「絶対嘘。」
そのやり取りだけで楽しかった。
秋が過ぎ、冬になった。
アルの机には日本語の参考書が積まれていた。
ひらがな。
カタカナ。
漢字。
難しかった。
だが研究より楽しい。
祖母や真由と話したい。
翻訳アプリなしで話したい。
それだけで勉強を続けられた。
母が笑う。
「珍しいわね。」
「何が?」
「自分から勉強したいなんて。」
「必要だから。」
「研究?」
「違う。」
母は意味ありげに笑った。
アルは少しだけ顔を赤くした。
冬休みの夜。
真由とビデオ通話をしていた。
真由がいつものように翻訳アプリを開こうとする。
その前にアルが言った。
「久しぶり。」
真由が止まる。
数秒間完全に固まった。
「え?」
アルはもう一度言う。
「久しぶり。」
「待って。」
「今、日本語?」
「うん。」
「しゃべれてるじゃん!」
「少しだけ。」
「いつ勉強したの?」
「ずっと。」
「なんで?」
アルは少し照れながら答えた。
「約束したから。」
真由は黙った。
そして少しだけ顔を赤くした。
「そ、そう。」
「ありがとう。」
夜。
テニスコートの帰り道。
アルは空を見上げた。
万座高原の星空が思い浮かぶ。
真由。
陸。
健一。
美香。
祖父母。
あの食卓。
あの笑い声。
以前の自分なら、 研究だけを見て生きていた。
だが今は違う。
研究も好きだ。
テニスもしたい。
友達とも話したい。
人生を楽しみたい。
どれか一つを選ぶ必要はない。
全部、自分で選べばいい。
アルは静かに笑った。
そして呟く。
「今度は、自分で決める。」
それは人生で初めて、 心から出た言葉だった。
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