万座の夏、僕が僕を選ぶまで 第四章 桜井家

第四章 桜井家

第四章 桜井家


万座高原へ来てから五日が過ぎていた。

アルは毎日のように真由たちと遊んでいた。

川へ行き、秘密基地を修理し、 自転車で山道を駆け下りる。

スタンフォードでは考えられない生活だった。

研究も論文もない。

締め切りも会議もない。

最初は落ち着かなかった。

スマホを開けば未読メールが並んでいる。

教授からの連絡。 企業からの問い合わせ。 研究の進捗確認。

しかし最近は違った。

気付けばスマホを開く回数が減っていた。

その日の夕方、 秘密基地から帰ろうとした時だった。

真由が言った。

「今日、うちでご飯食べる?」

翻訳アプリが英語に変換する。

アルは少し驚いた。

誰かの家で夕食を食べる経験など、 ほとんどなかったからだ。

スタンフォードでの生活は忙しい。

研究者は同僚ではあっても友達ではない。

家族ぐるみの交流など存在しなかった。

少し考えた後、 アルはうなずいた。

「行ってみたい」

真由は嬉しそうに笑った。


桜井家は旅館から歩いて十分ほどの場所にあった。

大きな家ではない。

しかし庭には花が咲き、 畑には野菜が並んでいる。

窓からは夕飯の匂いが漂っていた。

どこか温かい空気があった。

「ただいまー!」

真由が玄関を開ける。

すると奥から大きな声が返ってきた。

「おかえり!」

真由の父、 健一だった。

日に焼けた顔。 大きな手。 豪快な笑い声。

まるで山のような人だった。

真由がアルを紹介する。

「旅館のアル」

健一は笑った。

「聞いてる聞いてる」

「天才君だろ?」

アルは苦笑した。

またその話か。

そう思った次の瞬間。

健一は言った。

「それより腹減ってるか?」

アルは一瞬言葉を失った。

研究の話ではない。

大学の話でもない。

ただ、腹が減っているか。

それだけだった。


夕食の時間になった。

焼き魚。 味噌汁。 採れたての野菜。

豪華ではない。

しかし不思議と美味しそうだった。

家族全員が席につく。

今日あった出来事を話し始める。

近所の猫。 カブトムシ。 畑のトマト。

どうでもいい話ばかりだった。

だが誰もが楽しそうだった。

アルは静かにその光景を見つめる。

スタンフォードでは、 食事中も研究の話ばかりだった。

成果。 論文。 予算。

だがここは違う。

誰も競争していない。

誰も成果を求めていない。

ただ一緒に笑っている。

その光景が、 アルには少し眩しかった。

健一が聞く。

「アル、今日何が楽しかった?」

アルは答えに詰まった。

そんな質問をされたことがなかったからだ。

研究はどうだ。

成果はどうだ。

そう聞かれることはあっても、 楽しかったことを聞かれた記憶はなかった。

しばらく考えて答える。

「みんなと遊んだこと」

翻訳アプリが日本語に変換する。

その瞬間、 みんなが笑った。

「それは良かった!」

健一の笑顔につられて、 アルも少し笑った。

誰も天才扱いしない。

誰も研究者扱いしない。

ただの十四歳の少年として扱う。

そのことが、 なぜかとても心地良かった。


◇ 第四章 前編 終 ◇

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