碁盤の向こうへ 第二部 ― 一歩先を歩く人
碁盤の向こうへ
中学一年・新学期から夏の大会へ
第一章 制服と新しい碁盤
四月。
出雲の朝は、冬の冷たさをようやく手放し始めていた。
古民家の玄関で、中学一年生になった美緒は、新しい制服の襟を整えた。
小学校のランドセルはもうない。
けれど、通学の途中で見える出雲大社の大きな木々は、去年までと変わらなかった。
「行ってきます」
「気をつけてね。帰ったら碁盤が待ってるよ」
祖父の声に、美緒は笑った。
中学生になった美緒には、新しい目標ができていた。
高校受験でも、成績でもない。
もちろん勉強は大切だ。父も母も、それだけは何度も言っている。
だが、もう一つの未来が、美緒の中ではっきり形になり始めていた。
小学生のころは、「本因坊秀策のようになりたい」と言っていた。
今は、それだけではなかった。
実際に棋院へ通い、強い棋士を目指す人たちがいる世界。
自分もそこへ行きたい。
そう思うようになっていた。
第二章 囲碁部の扉
入学して三日目、美緒は囲碁部の部室を訪れた。
扉を開けると、静かな部屋に碁石の音が響いていた。
パチッ。
白石が置かれる。
美緒は足を止めた。
そこにいたのは、三年生の少女だった。
長い髪を後ろで束ね、碁盤から一度も目を離さない。
「新入生?」
少女が顔を上げた。
「はい。一年の美緒です」
「私は三年の玲奈。囲碁部の部長」
玲奈はそう言って、盤上の石を指した。
「ここ、どう打つと思う?」
いきなりだった。
美緒は盤面を見た。
左辺に白の厚み。右下に黒の弱い石。
普通なら黒を守る。
しかし――。
「……ここです」
美緒が指したのは、相手の勢力の真ん中だった。
玲奈の目が少しだけ細くなる。
「理由は?」
「黒を守るより、白に先に攻めさせないほうがいいと思います」
玲奈は数秒黙った。
そして笑った。
「なるほど。面白いね」
その日から、美緒は囲碁部の一員になった。
第三章 部長という壁
玲奈は、普通の中学生ではなかった。
小学生のころから棋院に通い、強い棋士たちと対局を重ねてきた。
将来はプロ棋士になる。
その目標を、誰にも隠していなかった。
美緒にとって玲奈は、初めて身近にいる「本気で棋士を目指している人」だった。
放課後の部室。
部員たちがそれぞれ対局している中、美緒は玲奈の棋譜を研究していた。
「その棋譜、私の?」
「はい」
「どこが分からない?」
「ここです。この一手が、どうして成立するのか……」
玲奈は盤に石を並べた。
「美緒は、今の段階だと石を強くしようとしすぎる」
「強くする……?」
「自分の石を助けることばかり考えてる。でも、囲碁は全部の石を助けるゲームじゃない」
玲奈は黒石を一つ取った。
「捨てる」
そして白石を取る。
「その代わり、相手から大きなものを奪う」
美緒は息をのんだ。
それは、祖父から教わってきた囲碁とは少し違っていた。
祖父は「石を大切に」と教えてくれた。
玲奈は「石を捨てる勇気」を教えている。
美緒は初めて、明確な壁を感じた。
第四章 新しい友達
美緒は囲碁部で二人の同級生と仲良くなった。
一人は攻撃型の男子、健太。
もう一人は冷静な読みを得意とする女子、真帆。
「美緒って、ずっと囲碁やってたんだろ?」
「うん。おじいちゃんに教えてもらったの」
「じゃあ、俺より強い?」
「たぶん」
「即答するなよ!」
三人は笑った。
健太は攻める碁が得意だった。
真帆は盤面全体を見るのが上手かった。
そして美緒は、二人の長所を吸収していった。
ある日の練習試合で、健太が言った。
「俺たち、夏の大会で団体戦に出ようぜ」
真帆も頷いた。
「三人なら、勝てるかもしれない」
美緒は碁盤を見つめた。
個人戦なら、自分が負ければ終わり。
団体戦なら違う。
仲間の勝敗も背負う。
それが、美緒にとって新しい挑戦だった。
第五章 初めての公式戦
五月。
地区大会の日が来た。
会場には、他校の囲碁部員たちが集まっていた。
美緒は受付を済ませ、碁盤の前に座った。
対戦相手は中学二年生。
開始の合図。
「お願いします」
黒番の美緒は、最初の石を置いた。
序盤は互角だった。
しかし中盤、相手が右辺へ大きく侵入してきた。
美緒は守りたくなった。
だが、玲奈の言葉が頭をよぎった。
美緒は一呼吸置いた。
そして、左上へ飛んだ。
相手が顔を上げる。
「そこ?」
美緒は答えなかった。
左上を荒らしながら、右辺の白石を攻める。
相手は右辺を守るか、左上を取るか迷った。
その一瞬の迷いを、美緒は逃さなかった。
数手後、白の大石が切断された。
「……まいりました」
美緒は初めて、中学生の公式戦で勝利した。
しかし、部室へ戻ると玲奈は言った。
「おめでとう。でも、今日の碁はまだ七十点」
「七十点……」
「勝ったから百点じゃない。最後のヨセ、三目くらい損してた」
美緒は悔しそうに笑った。
「次は百点にします」
玲奈も笑った。
第六章 部長との対局
六月。
夏の大会を前に、囲碁部では部内リーグが始まった。
そして、美緒の名前が最後に呼ばれた。
「一年、美緒。三年、玲奈」
部室が静かになった。
健太が小声で言う。
「いきなり部長かよ……」
真帆も盤を見つめた。
美緒は玲奈と向かい合った。
「お願いします」
「こちらこそ」
序盤、美緒は慎重だった。
玲奈は中央に厚みを作る。
美緒はその厚みに近づかない。
辺で地を取り、中央へ逃げる。
ところが中盤、玲奈が鋭い一手を放った。
美緒の黒石が二つに分断された。
「しまった……」
玲奈は攻める。
美緒は逃げる。
だが、逃げるだけでは勝てない。
美緒は盤面を見渡した。
右下に白の弱い石がある。
そこで美緒は決断した。
黒石を一つ、あえて捨てる。
「……これで」
パチッ。
黒石が中央に置かれた。
玲奈の表情が変わった。
「そう来たか」
玲奈は黒石を取りに行った。
その瞬間、美緒は右下へ侵入した。
戦いが始まった。
十手、二十手、三十手。
二人は一手ごとに長く考えた。
美緒は初めて、玲奈と同じ盤面を見ている気がした。
終盤。
盤面は半目差まで迫った。
最後のヨセ。
美緒は一手を選んだ。
しかし玲奈がさらに大きな場所へ先着した。
終局。
美緒の負けだった。
「……半目」
玲奈が言った。
「今日は半目だけだった」
美緒は盤面を見た。
負けた。
それなのに、悔しさと同じくらい嬉しかった。
確かに届かなかった。
でも、以前の自分なら、もっと早く崩れていた。
玲奈は碁石を片付けながら言った。
「美緒。夏の大会、エースとして出て」
美緒は顔を上げた。
「私が?」
「うん。あなたは一年だけど、もう囲碁部の戦力だよ」
第七章 団体戦の責任
夏の大会まで一か月。
囲碁部の練習は厳しくなった。
美緒はエースとして一番手を任された。
二番手は真帆。
三番手は健太。
三人で一つのチームだった。
しかし練習試合では、健太が負け続けた。
「また負けた……」
健太は碁盤を見つめた。
「俺、三番手じゃ足引っ張るかな」
美緒は首を振った。
「そんなことない」
「でもさ」
「団体戦は、誰か一人だけ強ければ勝てるわけじゃないよ」
真帆も言った。
「私たち三人で勝つんだから」
その日から、三人の練習方法が変わった。
美緒が一局を打ち、真帆がその棋譜を分析する。
健太は自分の攻めをぶつける。
三人で相手の弱点を考える。
やがて健太の攻めが、少しずつ変わっていった。
「相手を倒すだけじゃなくて、逃げ道を残して攻める」
それを覚えた健太の碁は、一段強くなった。
美緒は仲間が強くなっていくことに喜びを感じていた。
第八章 夏の大会
七月。
ついに県大会の日が来た。
会場には多くの学校が集まった。
一回戦。
美緒は一番手で勝った。
真帆も勝った。
しかし健太が敗れた。
二勝一敗。
チームは勝ち上がった。
二回戦も同じだった。
美緒が先に勝つ。
真帆が粘る。
健太が最後まで戦う。
そして三人で勝つ。
準決勝。
相手校の一番手は、二年生の強豪だった。
美緒は序盤から攻められた。
中央の黒石が薄い。
相手はそこを狙ってきた。
美緒は逃げながら考えた。
「玲奈先輩なら、ここでどうする?」
そして、答えが浮かんだ。
黒石を一つ捨てる。
代わりに相手の厚みを利用して、反対側へ大きく展開する。
相手の表情が変わった。
美緒は攻めに転じた。
終盤、僅差。
美緒は最後まで集中を切らさず、半目差で勝った。
しかし隣の盤を見ると、真帆が苦戦している。
さらに健太の盤も激しい戦いになっていた。
「真帆、頑張れ!」
声を出すことはできない。
だから美緒は心の中で叫んだ。
やがて真帆が勝った。
二勝。
決勝進出。
第九章 決勝、そして一歩先へ
決勝の相手は、強豪校だった。
そして相手の一番手は――。
玲奈と棋院で何度も打ったことがあるという三年生だった。
美緒は盤の前に座った。
「お願いします」
対局開始。
相手は強かった。
一手一手が正確だった。
美緒は苦しい戦いを続けた。
中盤で大きな戦いが起こった。
黒石の一群が危なくなる。
それでも美緒は逃げなかった。
攻めながら生きる。
攻められながら相手の弱点を探す。
終盤、盤面はほぼ互角。
そして最後の大きなヨセが残った。
美緒は考えた。
一分。
二分。
そして石を置いた。
結果は――僅差の敗北だった。
一方、真帆は勝っていた。
健太は最後の戦いを続けている。
「健太……」
最後の盤が終わった。
健太が顔を上げた。
負けだった。
チームは準優勝。
健太は悔しそうに俯いた。
美緒はその肩を叩いた。
「ありがとう」
「……俺、負けたぞ」
「うん。でも、一緒に決勝まで来た」
真帆も笑った。
「来年は優勝しよう」
美緒は頷いた。
終章 夏の終わりに
大会から数日後。
美緒は古民家へ帰った。
祖父が縁側で待っていた。
「どうじゃった?」
「準優勝」
「ほう」
「でも、負けた」
祖父は笑った。
「そうか。では、強くなれるな」
その夜、美緒は祖父と碁盤を囲んだ。
以前なら見えなかった場所が、今は見える。
それでも祖父の一手は、まだ美緒の先を歩いている。
美緒はふと思った。
ならば、追えばいい。
いつか追いつき、そして追い越せばいい。
翌朝、美緒は出雲大社の参道を歩いた。
夏の終わりの風が、木々の間を抜けていく。
小学生のころから歩いてきた道。
けれど、今日の景色は少し違って見えた。
「棋士になる」
もう夢ではない。
自分で選んだ未来だった。
そして、その未来の前には、まだ玲奈という大きな壁がある。
部長は三年生。
自分は一年生。
棋力も経験も、まだ届かない。
けれど、美緒には分かっていた。
一歩先を歩く人がいるからこそ、追いつこうと思える。
夏の大会で負けた一局も、無駄ではない。
団体戦で仲間と戦った時間も、これからの力になる。
美緒は空を見上げた。
「次は、勝つ」
そして、碁盤の上に置く次の一手を考えながら、学校へ向かって歩き出した。
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