碁盤の向こうへ 第六部 ― 夏の団体戦、頂点へ ―
碁盤の向こうへ 第六部 ― 夏の団体戦、頂点へ ―
高校一年・院生の戦いと、団体戦二回戦から決勝まで
第一章 二回戦の朝
夏の朝は早かった。
まだ蝉の声が街を埋め尽くす前の時間、美緒は祖父の碁盤の前に座っていた。
高校一年生。そして、院生。
その二つの肩書きを持つようになって、数か月が過ぎていた。
だが、美緒の中では、まだ何一つ「慣れた」と思えるものはなかった。
院生の対局では、勝ったと思った碁をひっくり返されることもある。序盤で優勢になっても、中盤の一手で形勢を崩す。読み切ったつもりの攻めが、相手の一手で空振りに終わる。
プロを目指す者たちが集まる場所。そこでは、「強い」だけでは足りなかった。
勝ち続けること。負けた理由を自分で見つけること。そして、翌日にはまた盤の前に座ること。
それが院生の世界だった。
美緒は、祖父の碁盤に手を置いた。
東京へ来てからも、祖父の碁盤だけは大切に持ってきていた。木の匂い。少し擦れた盤面。何度も触れた碁石。そのすべてが、幼いころの記憶を呼び起こす。
祖父の声が聞こえた気がした。
――最後まで盤を見るんだ。
美緒は静かに立ち上がった。
今日は夏の団体戦、二回戦。鞄の中には棋譜ノートと大学受験用の参考書、そして小さな碁石入れ。
高校生活も、院生生活も、団体戦も。すべてが今の美緒の「盤」だった。
第二章 院生の壁
団体戦の会場へ向かう電車の中。美緒は棋譜ノートを開いた。
そこには、最近の院生対局がびっしりと書き込まれている。
勝ち。負け。半目負け。中押し負け。そして、勝ったのに内容が悪かった碁。
美緒は小さくつぶやいた。
院生の中には、自分より年下の子もいる。それなのに、読みの速さでは負ける。戦いになれば、先を読まれる。ヨセに入れば、一目、二目の差を積み重ねられる。
以前なら、負けるたびに落ち込んでいた。
しかし、最近は少し違っていた。負けた棋譜を見ながら、美緒は一つずつ原因を書き込んでいた。
「ここで逃げた」「ここは攻めるべきだった」「相手の弱い石を見ていなかった」「自分の石だけを守ろうとしている」
最後の言葉を見て、美緒は手を止めた。それは玲奈から何度も言われてきたことだった。
――一つ捨てることで、もっと大きなものを得られる。
美緒はノートを閉じた。
だからこそ、プロになりたい。いつか玲奈を越えたい。そして――本因坊を目指したい。
その夢を、本気で口にできる自分になるために。
第三章 二回戦――最初の攻防
二回戦の相手は、県大会上位常連の強豪校だった。
対局が始まる。美緒は黒。最初の数手は穏やかだった。
しかし、右辺で相手が積極的に仕掛けてきた。美緒の右辺の石を分断しようとしていた。
相手はさらに切った。右辺の黒石が二つに分かれる。観客席から小さなどよめきが起きた。
美緒は答えなかった。盤全体を見た。右辺の石。中央。左下の白石。そして相手の厚み。
普通なら、切られた石を助けたくなる。だが――。
美緒は一つの石を捨てた。
中央への一手。相手が一瞬、止まった。
その石を取れば、相手は得をする。しかし、その間に美緒は中央を大きくまとめられる。
相手は悩んだ。そして石を取った。
美緒は中央へ打った。一気に黒の厚みが働く。
相手の石が苦しくなった。しかし、相手も粘る。
終盤。半目を争う形になった。美緒は最後のヨセを慎重に打った。
結果――黒の半目勝ち。
その直後、隣の盤から声が上がった。
健太だった。そして真帆も勝っていた。
三人で顔を見合わせる。
二回戦突破。
だが、喜びは長く続かなかった。次は準々決勝。さらに強い相手が待っている。
第四章 準々決勝――信じる力
準々決勝。相手は昨年の大会で準優勝した強豪だった。
美緒は第一盤。開始直後から激しい戦いになった。
相手の攻めは速い。美緒は中央の黒石を追われる。
一手遅れれば、大石が取られる。二手遅れれば、勝負が終わる。
読んでいるうちに時間が減っていく。時計を見る。残り時間が少ない。焦りが生まれた。
その瞬間だった。
美緒は一度、手を膝に戻した。深呼吸。盤を見る。
そして気づいた。相手にも弱い石がある。
美緒は攻めの方向を変えた。自分の石を逃がすのではなく、相手の弱石を攻める。
攻守が逆転した。
しかし、勝負は最後まで分からなかった。終局。美緒の碁は、わずかに及ばなかった。半目負け。
健太が言った。
真帆も頷いた。
美緒は、自分の負けを悔やむのをやめた。
そして――健太が勝った。真帆も勝った。
チームは2勝1敗。準決勝進出。
第五章 勝つための条件
準々決勝を終えた夜。宿舎の一室で、美緒たちは棋譜を並べていた。
真帆が美緒の棋譜を指差した。
健太も言った。
以前の自分なら、負けた棋譜を見ることさえ嫌だった。今は違う。
負けは、次の一手を教えてくれる。
真帆が頷く。
美緒は少し笑った。
その言葉は、謙遜ではなかった。本当に遠いのだ。
院生の中でも勝ち続けられない。プロ棋士になった玲奈は、その先で戦っている。
美緒は棋譜ノートを閉じた。
第六章 負けることの意味
翌週。院生の対局。美緒はまた負けた。
相手は同年代の有力院生。序盤は互角。中盤、相手が鋭く切り込んできた。
美緒は受ける。しかし、その受けが一手遅かった。一気に形勢が傾いた。
帰り道。美緒は一人だった。
悔しい。情けない。プロになりたいと言いながら、院生の中で勝ち続けることすらできない。
駅のホームで、スマートフォンが鳴った。玲奈からだった。
しばらくして玲奈から返事が来た。
――ただし、ここを直す必要がある。
玲奈が指摘したのは、負けた場所よりも、その前の数手だった。
美緒は棋譜を見直した。
プロの視点。一手だけではなく、流れを見る。
でも、その目にはもう涙はなかった。
負けた。だから、次に直す場所が見えた。それだけだった。
第七章 玲奈の夜
数日後。玲奈との練習対局の日が来た。
二人が碁盤を挟む。
玲奈はプロ棋士。美緒は院生。
以前は、ただ「追いかける背中」だった。今は違う。いつか追いつくための相手だ。
序盤、美緒は積極的に仕掛けた。中盤、美緒は一つの石を捨て、中央に厚みを作った。
玲奈の一言に、美緒は少しだけ自信を持った。
終盤まで接戦が続いた。最後は玲奈の勝ち。しかし、美緒は以前ほど差を感じなかった。
二人で笑った。
玲奈は碁石を片付けながら言った。
美緒は深く頷いた。
玲奈は笑った。
第八章 準決勝――中央の一手
準決勝。会場の空気は、二回戦とはまるで違った。
観客も増えている。相手も強い。ここまで来れば、どちらが勝ってもおかしくない。
美緒の相手は、院生としても名前の知られた選手だった。
序盤から中央を争う。右辺を取れば左辺を失う。左辺を守れば中央が薄くなる。
相手が中央に打った。強い一手だった。
美緒は数十秒考えた。そして――中央ではなく、左下へ打った。
一見、地味な手。しかし、その一手で相手の右辺の石が弱くなった。
美緒は攻めた。今度は取りに行かない。逃げ道を制限する。
相手は中央へ逃げる。そこには、すでに美緒の厚みがある。
中盤の戦いは一気に激しくなった。
美緒は冷静だった。一年前なら、ここで攻め過ぎていた。
相手の石が生きた瞬間、美緒は別の場所へ回った。そして大きな地を取った。
終局。美緒の勝ち。
ほぼ互角だった碁を、最後の数手でひっくり返した。
健太の盤も激戦だった。最後まで粘った健太が、僅差で勝った。
チームは2勝0敗。決勝進出。
美緒は碁盤を見つめた。
第九章 決勝前夜
決勝前夜。三人は宿舎で最後の打ち合わせをしていた。
健太がため息をつく。
美緒が笑った。
その夜、美緒は一人で窓辺に立った。東京の夜景。その向こうに、遠い出雲の風景が浮かんだ。
祖父の家。古い碁盤。出雲大社の参道。そして、幼いころに祖父と打った碁。
美緒は胸の中で答えた。
スマートフォンを見る。玲奈からメッセージが届いていた。
美緒は返信した。
そして参考書を開いた。数学を少しだけ勉強する。
プロを目指す。でも、勉強も続ける。父と母との約束。
大学受験も、その先の人生も捨てない。
碁だけが人生ではない。だからこそ、碁を選ぶ意味がある。
第十章 決勝――第一盤
決勝。会場には大勢の人が集まっていた。
美緒は第一盤。黒番。
序盤から相手は厚く打ってきた。美緒は地を取りに行く。相手は中央を取る。互いに違う価値観を選ぶ碁になった。
中盤。相手が右辺に侵入した。美緒は攻める。しかし、相手は巧みに逃げる。
それでも、美緒は焦らなかった。右辺を追いながら、左辺を見る。中央を見る。相手の厚みを見る。
そして、決断した。一つの石を捨てる。
相手の手が止まる。
その石を取れば、相手は得をする。しかし、その間に美緒は中央を大きくまとめられる。
相手は石を取った。美緒は中央へ打った。一気に黒の厚みが働く。
相手の石が苦しくなった。しかし、相手も粘る。
終盤。形勢は半目単位になった。美緒は時計を見る。残り時間は少ない。
最後のヨセ。相手が大きな場所へ打った。美緒は盤面を見渡した。
そして――左上。
一見小さな一手。だが、それは相手の一目を削り、自分の一目を増やす手だった。
最後の一手。
終局。審判が計算する。会場が静まり返った。
美緒は目を閉じた。
第十一章 頂点
しかし、団体戦はまだ終わっていなかった。
真帆の盤。健太の盤。
どちらか一つを取れば、優勝が決まる。
真帆は粘った。だが、最後に半目及ばなかった。
1勝1敗。すべては健太の盤に託された。
健太は苦戦していた。それでも諦めなかった。
美緒は後ろから盤を見つめた。
終盤。健太が一手を打つ。
相手が長く考える。
そして――投了。
会場に歓声が上がった。
2勝1敗。優勝。夏の団体戦、頂点。
健太が拳を握る。真帆が泣いている。美緒も、涙が出そうになった。
三人は肩を組んだ。
美緒は碁盤を見つめた。
そこには、決勝戦で戦った石が並んでいた。
一つを捨てた。その代わりに、大きなものを得た。
祖父から教わったこと。玲奈から学んだこと。院生で負け続けた日々。
全部が、この一局につながっていた。
第十二章 頂点の、その先へ
表彰式。優勝旗を受け取る。写真撮影。仲間たちの笑顔。
それでも、美緒の胸の奥には、不思議な静けさがあった。
頂点に立った。確かに嬉しい。
美緒は知っていた。
院生の世界では、まだ勝ち続けられていない。プロ棋士になった玲奈は、その先で戦っている。
そして、本因坊を目指すなら、もっともっと強くならなければならない。
帰宅すると、美緒は祖父の碁盤の前に座った。優勝メダルをそばに置く。
返事はない。でも、美緒には祖父が笑っているように思えた。
そして、棋譜ノートを開く。決勝戦の棋譜。最後の一手を見つめる。
その一手の先に、まだ見えない未来がある。
プロ棋士。玲奈との再戦。院生としてのさらなる戦い。大学受験。
そして――本因坊。
美緒は碁石を盤の上に置いた。
夏の団体戦は終わった。
しかし、院生としての本当の戦いは、これからだった。
少女は、団体戦の頂点に立った。
けれど、その視線はすでに次の山を見ていた。
プロ棋士になる。
そのために、明日も盤の前に座る。
勝っても。負けても。迷っても。立ち止まっても。
最後には、もう一度、碁石を握る。
祖父から受け継いだ一手。
玲奈から教わった覚悟。
仲間とつかんだ優勝。
そのすべてを胸に、美緒は新しい棋譜の一ページを開いた。
夏の終わり。東京の夜空に、蝉の声がまだ残っていた。
その声を聞きながら、美緒は静かに笑った。
「次は――院生で勝つ」
そしてその先にある、遠い遠い夢を見つめた。
本因坊。
まだ、誰も知らない未来だった。
だが、その未来へ向かう最初の一手は――もう、盤の上に置かれていた。
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