万座の夏、僕が僕を選ぶまで 外伝第五部 後編 遺されたもの
外伝第五部 後編 遺されたもの
― 神崎家の新しい時代 ―
祖父リチャード・神崎の葬儀から一週間が過ぎた。
ニューヨークの空はどこまでも青かった。
しかし神崎家の誰もが、 まだ祖父の死を受け入れ切れてはいなかった。
神崎法律事務所。
マンハッタン中心部に建つ超高層ビル。
百年以上にわたり、 神崎家が守り続けてきた場所だった。
その最上階で臨時役員会が開かれていた。
会議室には重役たちが並ぶ。
空気は重かった。
誰もが同じことを考えている。
「この先どうなるのか。」
ジョナサンが立ち上がった。
祖父よりも柔らかな雰囲気になったとはいえ、 その姿には圧倒的な存在感があった。
重役の一人が口を開く。
「ジョナサン。」
「やはりあなたが代表になりますよね。」
別の重役も頷く。
「それが一番自然です。」
「誰も反対しません。」
ジョナサンは静かに首を振った。
「私は代表にはならない。」
会議室がざわついた。
予想外だった。
「ではアレックスが?」
誰かが言う。
アレックスは即座に答えた。
「私も違います。」
「自分の会社があります。」
さらに騒めきが大きくなる。
「ではどうするんです?」
「事務所を解体するんですか?」
ジョナサンはゆっくり祖父の遺言書を机に置いた。
そして言った。
「事務所は続く。」
「ただし今までとは違う。」
ジョナサンは続けた。
「勝つためだけの事務所ではない。」
「一族の名前を誇示するための事務所でもない。」
「困っている人を助けるための事務所だ。」
重役たちは黙った。
祖父なら絶対に言わない言葉だった。
しかし不思議と反論は出なかった。
会議終了後。
アレックスは父を呼び止めた。
「父さん。」
「なんだ。」
「変わったね。」
ジョナサンは少し笑う。
「お前もな。」
「そうかも。」
アレックスも笑った。
昔ならこんな会話は存在しなかった。
その夜。
ホテルのラウンジ。
ジョナサンとアレックスは二人で座っていた。
窓の外にはマンハッタンの夜景が広がる。
アレックスが聞いた。
「父さん。」
「なんだ。」
「父さんは幸せだった?」
ジョナサンは苦笑した。
「答えにくいな。」
少し考えてから続ける。
「成功はした。」
「でも幸せだったかは分からない。」
アレックスが笑う。
「全く同じだ。」
二人はしばらく黙った。
そしてジョナサンが言う。
「すまなかった。」
アレックスが顔を上げる。
「何が?」
「お前にだ。」
「勝つことしか教えなかった。」
長い沈黙。
アレックスは窓の外を見た。
そして小さく答えた。
「僕も同じだった。」
「全部父さんのせいじゃない。」
その言葉で、 二人は初めて本当の親子になれた気がした。
一方。
アルは事務所の資料室にいた。
祖父の残した古い資料を整理していたのだ。
そこで一冊のノートを見つける。
三十代の祖父の日記だった。
興味本位で開く。
そこには意外な言葉が並んでいた。
『今日もジョナサンと夕食を食べられなかった。』
『また仕事だった。』
『今度こそ時間を作る。』
同じ文章が何度も書かれていた。
アルは静かにノートを閉じる。
祖父も家族を愛していた。
ただ方法を知らなかっただけだった。
帰国の日。
空港には神崎家全員が集まっていた。
アレックスの娘エマが走り回る。
ノアが後を追いかける。
その様子を見て、 みんなが笑っていた。
アレックスが言う。
「来年も万座に行こう。」
エマが叫ぶ。
「いくー!」
ノアも真似する。
「いくー!」
ジョナサンまで笑った。
自然な笑顔だった。
アルはその顔を見て思う。
祖父が残したかったものは、 法律事務所ではなかったのかもしれない。
神崎という名前でもない。
家族そのものだったのだ。
飛行機の窓から、 ニューヨークの夜景が遠ざかっていく。
祖父はもういない。
だが祖父が最後に守ったものは、 確かに残っていた。
父。
兄。
母。
そして自分。
神崎家はようやく、 同じ方角を向き始めていた。
◇ 外伝第五部 後編 遺されたもの 終 ◇
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