夏空に残る、兄のゴール
夏空に残る、兄のゴール
蓼科の風と、二人で追いかけた夢
――双子の兄弟が歩いた、ひと夏の物語――
二人でひとつのチーム
長野県・蓼科。
標高の高い山々に囲まれたその町では、夏になっても朝夕にはひんやりとした風が吹いていた。
木々の緑は濃く、遠くの山肌には雲がゆっくりと流れている。
蓼科の公立中学校。そのグラウンドでは、毎朝六時からサッカー部の練習が始まっていた。
その中心にいたのが、双子の兄弟――朝倉蓮と朝倉湊だった。
中学二年生。二人は顔立ちがよく似ていた。
しかし、ピッチに立つと、その役割は正反対だった。
兄の蓮はゴールキーパー。
弟の湊はフォワード。
蓮は最後尾から味方を支え、湊は最前線でゴールを奪う。
「湊、もっと右!」
「わかってる! 蓮、次のボール、絶対止めろよ!」
シュート。
湊が右足を振り抜く。
ボールはゴール左隅へ飛んだ。
だが、蓮が横っ飛びになった。
バシッ――。
白いボールが、蓮の手のひらに収まった。
「まだまだだな、湊」
「くそっ……次は決める!」
二人は笑った。
この夏、二人には大きな目標があった。
夏の県大会。
湊はその大会で結果を出し、将来は海外のサッカーアカデミーへ進むことを夢見ていた。
一方、蓮は別の道を見つめていた。
父は医師。
母は会計士。
成績優秀な蓮は、父の背中を見ながら、自分も医師になろうと考えていた。
サッカーも好きだった。
だが、蓮にはもうひとつ、はっきりした覚悟があった。
「僕は、父さんの病院を継ぐよ」
それを聞いた湊は、少しだけ黙ってから言った。
「じゃあ俺は、世界でサッカーする」
「うん。湊ならできる」
その言葉を、湊はずっと信じていた。
夏の大会へ
大会まで、あと一週間。
練習は日に日に厳しくなった。
朝練、授業、午後練、そして自主練。
湊は誰よりもシュートを打った。
蓮は誰よりもゴールを守った。
ある夕方、練習が終わったあとも、二人だけがグラウンドに残っていた。
空はオレンジ色に染まり、蓼科の山々が夕陽を受けて赤く輝いていた。
「蓮、もう一本だけ」
「また?」
「大会で決めたいんだ」
「わかった。蹴ってこい」
湊は助走を取った。
右足。
シュート。
蓮が飛ぶ。
ボールは手をかすめ、ゴールポストを叩いた。
「惜しい!」
「今のは俺の勝ちだな」
「いや、ポストだからノーカウント」
二人は笑った。
それが、二人が一緒に行った最後の練習になった。
届かなかった約束
大会を数日後に控えた朝。
蓮はいつものように学校へ向かっていた。
その途中、交通事故に巻き込まれた。
病院から連絡を受けた父は、医師として必死に処置にあたった。
しかし――。
蓮は帰ってこなかった。
その知らせを聞いた瞬間、湊の世界から音が消えた。
妹の小学三年生の美咲は、母の腕の中で泣き続けていた。
父は何も言わなかった。
ただ、湊の肩に手を置いた。
湊は、その手を振り払った。
「……なんでだよ」
「なんで蓮なんだよ……」
机の上には、蓮のサッカーノートがあった。
最後のページには、短い言葉が書かれていた。
『湊が世界でプレーするところを、一度見てみたい』
湊はその文字を見つめた。
涙が落ちた。
「兄ちゃん……約束しただろ」
「俺が決めたら、お前が止めるって……」
返事はなかった。
兄のいない大会
大会の日。
湊はユニフォームに袖を通した。
いつもなら隣で準備している蓮はいない。
ゴール前には、別の選手が立っている。
チームメイトたちも、誰も多くを話さなかった。
監督が選手たちを集めた。
「今日は、蓮のために戦うんじゃない」
「俺たち自身のために戦え。そして、蓮と一緒に戦ってきた時間を、ピッチに置いてこい」
試合開始。
序盤から相手の攻撃を受けた。
湊は何度も守備に戻った。
そして前線へ走った。
前半終了間際、味方から縦パスが入った。
湊が走る。
相手DFをかわす。
ゴールキーパーと一対一。
一瞬、湊の頭に蓮の姿が浮かんだ。
――蹴ってこい。
――わかった。止めてやる。
湊は右足を振り抜いた。
ゴール。
歓声が上がった。
しかし湊は喜ばなかった。
空を見上げた。
「兄ちゃん……」
後半、チームは守り切れず、試合には敗れた。
大会は終わった。
だが、湊にとって本当の試合は、そこから始まった。
サッカーを捨てるのか
大会のあと、湊は練習に行かなくなった。
机に向かって勉強する時間が増えた。
成績はもともと優秀だった。
医師になる道なら、きっと進める。
父の仕事を継ぐ。
兄の代わりになる。
それが自分の責任なのではないか。
ある夜、湊は父に尋ねた。
「父さん……俺が兄ちゃんの代わりに医者になったほうがいい?」
父はしばらく黙っていた。
「どうしてそう思う?」
「兄ちゃんがいなくなったから。兄ちゃんが継ぐはずだったんだろ?」
父は首を横に振った。
「蓮は、私の代わりになるために生きていたんじゃない」
「……」
「お前も同じだ。蓮の人生を、お前が引き受ける必要はない」
湊は俯いた。
「でも、兄ちゃんの夢を無駄にしたくない」
父は静かに答えた。
「蓮の夢は、お前が医者になることだったのか?」
「……違う」
「なら、答えはもう出ているんじゃないか」
父は蓮のサッカーノートを湊に渡した。
「蓮は、お前が世界でプレーするところを見たかったんだろう」
湊はノートを胸に抱いた。
その夜、初めて声を上げて泣いた。
もう一度、グラウンドへ
数日後。
湊がグラウンドに現れると、サッカー部の仲間たちは黙って彼を見た。
キャプテンがボールを一つ転がした。
「遅いぞ、湊」
「……俺、戻っていいのか?」
「何言ってんだよ。FWがいなきゃ練習にならないだろ」
別の仲間が笑った。
「蓮の分まで、なんて言わない。お前はお前のサッカーをやれ」
湊の目から涙がこぼれた。
そしてボールを拾った。
「……わかった」
「俺、自分のサッカーをやる」
その日から、湊は再び走り始めた。
兄の代わりではなく、自分の道へ
秋。
湊は進路について家族に話した。
海外のサッカーアカデミーを目指す。
簡単な道ではない。
勉強も続ける。
もしサッカーで夢がかなわなくても、そのときは別の道を考える。
父はうなずいた。
母も微笑んだ。
妹の美咲は、よくわからないまま言った。
「お兄ちゃん、外国に行っちゃうの?」
「いつかね」
「じゃあ、蓮兄ちゃんも連れていって」
湊は少し驚き、それから笑った。
「うん。連れていくよ」
それは、湊にしかできない答えだった。
兄の代わりに生きるのではない。
兄を忘れるのでもない。
兄と過ごした時間を胸に抱えたまま、自分自身の人生を歩く。
兄が見たかった景色
翌年の夏。
蓼科のグラウンドに、湊の姿があった。
以前より身体は大きくなり、走る速度も、シュートの威力も増していた。
海外のアカデミーへの挑戦も決まった。
練習の最後、湊はゴール前に立った。
誰もいないゴール。
一年前、そこには蓮がいた。
湊はボールを置いた。
ゆっくり助走する。
そしてシュートを放った。
ボールはゴールネットを揺らした。
風が吹いた。
蓼科の山から降りてきた風だった。
湊は空を見上げた。
「兄ちゃん」
「俺、行くよ」
「海外へ行って、もっとサッカーを続ける」
「いつか世界でプレーする」
返事はない。
それでも、不思議と寂しくなかった。
湊にはわかっていた。
兄はもう隣にはいない。
けれど、二人で蹴ったボールも、交わした言葉も、最後に残した約束も、消えることはない。
それらはすべて、これから湊が走る道の中に残っている。
ゴールへ向かって走るたびに。
苦しくて立ち止まりそうになるたびに。
空を見上げれば、兄の声が聞こえる気がする。
――蹴ってこい。
湊は笑った。
そして、もう一度走り出した。
蓼科の夏空は、どこまでも青かった。
その空の向こうには、まだ見たことのない世界が待っている。
湊はその世界へ向かって、一歩ずつ進んでいった。
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