万座の夏、僕が僕を選ぶまで 第五章家族になれた夜

第五章 家族になれた夜

第五章 家族になれた夜


夏休みの終わりが近づいていた。

万座高原へ来てから三週間。

最初は長いと思っていた休暇だったが、 今ではあっという間に感じられた。

旅館の帳場には帰りの予定表が置かれている。

出発は二日後。

スタンフォードへ戻る日が迫っていた。

アルは客室の窓から山を見ていた。

夕暮れの万座高原。

夏の終わりを告げる風が吹いている。

スマートフォンには大量の通知が届いていた。

共同研究。

論文査読。

企業ミーティング。

夏休みが終われば、 また忙しい日々が始まる。

それは分かっていた。

分かっているのに、 なぜか胸が苦しかった。


その夜。

真由から連絡が来た。

「今日、うちに来なよ」

翻訳アプリが英語へ変換する。

アルは少し迷った。

だが断る理由はなかった。

むしろ行きたかった。

桜井家は今や、 万座高原で一番落ち着く場所になっていた。


夕食の準備はすでに始まっていた。

居間には食欲をそそる匂いが漂っている。

健一が魚を焼いていた。

美香は味噌汁を作っている。

陸はテレビを見ながら騒ぎ、 真由はそれを叱っていた。

いつも通りの光景だった。

だが今日は少し違った。

みんなが時々、 アルの顔を見ている。

帰る日が近いことを知っているからだ。


夕食が始まった。

焼き魚。

枝豆。

トウモロコシ。

畑で採れた野菜。

豪華な料理ではない。

しかしアルにとって、 世界で一番好きな食事になっていた。

会話もいつも通りだった。

陸が捕まえたカブトムシの話。

真由の学校の話。

健一の失敗談。

美香の愚痴。

どうでもいい話ばかりだった。

それなのに楽しい。

どうしてなのか、 アルには分からなかった。


食事が終わった後。

縁側で風に当たっていると、 健一が缶ジュースを持ってきた。

アルの隣に腰を下ろす。

しばらく二人で黙っていた。

虫の音だけが聞こえている。

やがて健一が言った。

「もう帰るんだな」

翻訳アプリを通して意味が伝わる。

アルはうなずいた。

「明後日」

健一は空を見上げた。

「寂しくなるな」

その言葉に、 アルは少し驚いた。

誰かにそんなことを言われた経験が ほとんどなかったからだ。


その夜遅く。

アルはなかなか眠れなかった。

旅館を抜け出し、 露天風呂へ向かう。

山の夜空には無数の星が広がっていた。

温泉の湯気が静かに立ち上る。

そこには祖父がいた。

静かに湯に浸かっている。

「眠れないのか」

アルはうなずいた。

祖父はそれ以上聞かなかった。

しばらく沈黙が続く。

やがてアルが口を開いた。

「帰りたくない」

自分でも驚くほど素直な言葉だった。

祖父は静かに聞いている。

「向こうに嫌な人がいるわけじゃない」

「研究も嫌いじゃない」

「でも苦しい」

「いつも何かを証明しなきゃいけない」

「役に立たなきゃいけない」

「期待に応えなきゃいけない」

アルの言葉は止まらなかった。

初めて誰かに本音を話していた。


翌日。

出発前最後の夜。

桜井家で小さな送別会が開かれた。

特別な料理はない。

だがみんな集まってくれた。

祖母ハルもいる。

旅館の祖父母もいる。

久しぶりに大勢で囲む食卓だった。

笑い声が絶えない。

アルはその光景を見ていた。

胸が熱くなる。

そして気付く。

自分はこの時間が好きなのだと。

この人たちが好きなのだと。


不意に立ち上がった。

みんなが不思議そうな顔でこちらを見る。

アルは深呼吸した。

覚えたばかりの日本語を思い出す。

発音は上手くない。

文法も怪しい。

それでも。

自分の言葉で伝えたかった。

「みんな」

静かになる。

「ありがとう」

その瞬間、 誰も動かなかった。

アルは続ける。

「ぼく」

「ずっと」

「ひとりだと」

「思ってた」

真由の顔から笑顔が消える。

陸も黙る。

「でも」

「違った」

「ここに来て」

「違った」

涙があふれた。

「みんなに会って」

「本当に良かった」

「家族みたいだった」

部屋は静まり返っている。

そして最初に泣いたのは真由だった。

「なんであんたが帰るのに私が泣くのよ!」

そう言いながら涙を拭く。

陸も顔を背けている。

健一は照れ臭そうに笑った。

美香も目元を押さえていた。

祖母ハルが言う。

「何言ってるの」

「家族じゃないか」

その言葉を聞いた瞬間。

アルの中で何かがほどけた。

初めてだった。

肩書きではなく。

成果でもなく。

ただ存在するだけで受け入れられるのは。

その夜。

アルは知った。

人が生きる理由は、 成功だけではないことを。

誰かと笑うこと。

誰かとご飯を食べること。

帰りたいと思える場所があること。

それもまた、 人生にとって大切なのだと。


◇ 第五章 終 ◇

コメント

人気の投稿