十月十日の結界 ― 藤原家の少年と安倍晴明
十月十日の結界
京都の夏。七歳の少年・藤原蓮は、八歳の誕生日まで、あと三か月だった。
第一章 蝉の声と、見えない少年
七月十日・京都蝉の声が、朝から京都の町を覆っていた。
東山の山並みには白い雲が浮かび、古い町家の瓦は、照りつける太陽を受けて銀色に光っている。
その町の一角に、藤原家の大きな屋敷があった。
七歳の藤原蓮は、縁側に座って庭を眺めていた。
蓮には、ほかの子どもには見えないものが見える。
人には見えない「人」が、見えるのだ。
庭の石灯籠の横に、白い着物を着た女が立っている。
蓮は驚かなかった。
「こんにちは」
女は何も言わず、ただ蓮を見つめた。そして、消えた。
その直後、背後から声がした。
「蓮。その者に話しかけてはいけない」
振り返ると、そこには狩衣姿の男が立っていた。
端正な顔。静かな眼差し。そして、どこか現代の京都には似つかわしくない気配。
「晴明さん」
男は微笑んだ。
「そう呼んでよい。私は安倍晴明。お前を守る者だ」
第二章 八歳になれない家
藤原家には、誰にも語りたがらない秘密があった。
代々、藤原家の男子は八歳を迎えられない。
蓮の父、藤原宗一郎は京都市会議員。母の美沙は医師だった。
そして屋敷には、宗一郎の「養子」として暮らす二人の女性がいた。
一人は歯科医師の綾乃。もう一人は京都大学で数学を教える講師の千尋。
二人とも宗一郎の内縁の妻であり、それぞれ亡くなった男子を持っていた。
綾乃の息子も、千尋の息子も、八歳になる前に亡くなっている。
蓮の母は、二人の女性を責めることはなかった。
むしろ、三人で蓮を守ろうとしていた。
「この家には、昔から『藤原道真の呪い』があると言われているの」
ある夜、美沙は蓮にそう話した。
「道真って……菅原道真?」
「そう。昔の人たちは、怨霊になった道真公の怒りだと考えたのね」
蓮は晴明を見た。
晴明は、ゆっくり首を横に振った。
「違う。これは道真公本人の呪いではない」
蓮の背中を冷たい風が通り抜けた。
第三章 最初の事件
七月二十日屋敷の古い時計が、夜中の二時十三分に突然止まった。
同時に、地下の倉庫から物音がした。
宗一郎が確認に行くと、古い家系図が床に落ちていた。
その紙には、赤い墨で一つの数字が書かれていた。
「七」
さらに翌朝、蓮の部屋の窓には、内側から三本の傷がついていた。
誰かが侵入した形跡はない。
綾乃は歯科医師として冷静に傷を調べた。
「人間がナイフでつけた傷ではないわ。木の繊維が内側から押し出されている」
千尋は紙に図を書いた。
「七、八、九、十……数字には意味がある。もしこれが時間を示しているなら……」
晴明が静かに言った。
「十月十日だ」
蓮の誕生日だった。
第四章 母の記憶
八月夏休みが始まると、不思議な事件は増えていった。
蓮が歩くと、電灯が一つだけ消える。
神社の鈴が誰も触れていないのに鳴る。
屋敷の廊下に濡れた子どもの足跡が現れる。
そして、蓮だけが聞く声。
「七つで終われ」
ある夜、蓮は母の診察室で古いカルテを見つけた。
そこには、過去に亡くなった藤原家の子どもたちの記録があった。
死亡時刻は、すべて異なる。
だが、一つだけ共通点があった。
死亡する数日前、全員が「黒い烏を見た」と話していた。
その瞬間、窓の外で烏が鳴いた。
蓮は窓を開けた。
黒い羽が一枚、机の上に落ちてきた。
晴明が現れた。
「蓮。怖いか?」
「怖い。でも、逃げたら母さんを守れない」
晴明は初めて、少年に深く頭を下げた。
「その心があれば、呪いは破れる」
第五章 母のいない夏
九月一日事件は突然、現実の事故となった。
美沙が病院から帰宅する途中、車が制御を失った。
蓮が知らせを受けたとき、晴明は何も言わなかった。
ただ、蓮の肩に手を置いた。
美沙は助からなかった。
その夜、蓮は一人で泣いた。
「僕が呪いを破れなかったから……」
「違う」
晴明の声が響いた。
「お前の母は、お前を生かすために最後まで戦った。死を呪いの勝利にしてはいけない」
蓮は涙をぬぐった。
そのとき、部屋の鏡に黒い影が映った。
影は笑った。
「あと四十日」
第六章 数学で解く呪い
千尋は、古い家系図と死亡記録をすべて数字に置き換えた。
生年月日、死亡時刻、月齢、方角、屋敷の位置。
何百という数字が、巨大な表になった。
「これは偶然じゃない」
千尋は呟いた。
「呪いは、誰かが作った『規則』なんだわ」
綾乃も古い記録を調べた。
「そして、その規則には例外が一つある」
二人が蓮を見る。
「蓮くん」
「僕?」
「あなたは、これまでの子どもたちと違う」
晴明が頷いた。
「お前には、見える力がある。そして、私もここにいる」
蓮は気づいた。
呪いは「死ぬ運命」ではない。
誰かが何代にもわたって、恐怖を利用して守られてきた「仕組み」なのだ。
第七章 十月十日の夜
十月九日・午後十一時五十九分京都に雨が降っていた。
屋敷の灯りがすべて消えた。
時計が午前零時を告げる。
廊下の奥から、黒い影が現れた。
「藤原の子よ。八つになってはいけない」
蓮は震えながら立ち上がった。
その背後に、安倍晴明が立つ。
そして、蓮の左右には綾乃と千尋がいた。
「一人で戦うんじゃない」
千尋が言った。
「数学は、規則を見つけるためだけのものじゃない。規則を証明し、間違っているなら壊すためにも使える」
綾乃は蓮の手を握った。
「あなたは、もう一人じゃない」
蓮は影を見た。
「僕は八歳になる」
影が巨大に膨れ上がった。
だが晴明が扇を開く。
「陰陽の理は、恐怖では決まらぬ」
白い光が屋敷を満たした。
終章 十月十日、朝
十月十日・午前六時三分雨は上がっていた。
東の空から朝日が昇り、京都の瓦屋根を金色に染めていく。
蓮は布団の上で目を覚ました。
時計を見る。
午前六時三分。
そして、今日は十月十日。
八歳の誕生日だった。
蓮はゆっくり立ち上がった。
何も起きない。
窓を開ける。
朝の京都が見える。
遠くで鐘が鳴った。
「晴明さん……?」
返事はなかった。
ただ、机の上に白い紙が一枚置かれていた。
そこには、墨で一文字だけ書かれていた。
「生」
蓮は笑った。
母はいない。
けれど、母が守った命はここにある。
綾乃も、千尋もいる。
そして、長い間「呪い」と呼ばれていたものは終わった。
屋敷の庭で、黒い烏が一羽、空へ飛び立った。
その姿を見ながら、蓮は小さく呟いた。
「母さん。僕、八歳になったよ」
その瞬間、どこからともなく、風が吹いた。
白い光の中に、一瞬だけ晴明の姿が見えた。
「よくやったな、蓮」
少年は空を見上げた。
京都の朝は、昨日までとは違っていた。
藤原家の長い夏が終わり、新しい歴史が始まった。
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