万座の夏、僕が僕を選ぶまで 外伝 失われた長男
外伝 失われた長男
― アレックス・神崎の物語 ―
アレックス・神崎には、 子供時代の記憶がほとんどない。
正確に言えば、 覚えているのは勉強ばかりだった。
本。
参考書。
模試。
大学の講義。
それが彼の世界だった。
六歳。
英語を話した。
日本語を話した。
スペイン語も覚えた。
周囲は驚いた。
父は誇らしそうだった。
母は少し心配そうだった。
ある晩。
父が友人に言った。
「この子は特別だ。」
「世界で戦える。」
「普通の人生じゃ終わらない。」
アレックスはそれを聞いていた。
そして学んだ。
特別でいなければならない。
十歳。
大学レベルの数学を解いた。
新聞に載った。
テレビ局が取材に来た。
記者が聞く。
「将来の夢はなんですか?」
アレックスは答えた。
「分かりません。」
記者は笑った。
「じゃあノーベル賞かな?」
周囲も笑った。
だがアレックスは笑えなかった。
本当に分からなかったからだ。
夜。
母が部屋に来た。
「疲れてない?」
アレックスは首を振った。
疲れていると言ってはいけない。
そう思っていた。
母はベッドの横に座る。
「無理しなくていいのよ。」
アレックスは聞いた。
「無理ってなに?」
母は答えられなかった。
アレックス自身も、 無理をしている感覚がなかった。
それしか知らなかったからだ。
十五歳。
ケンブリッジ大学へ進学。
空港。
母が抱きしめる。
「いつでも帰ってきていいからね。」
父は肩を叩く。
「世界一になれ。」
アレックスは笑った。
その笑顔を、 後に母は思い出せなくなる。
イギリス。
周囲は全員大人だった。
教授。
研究者。
投資家。
起業家。
誰も彼を子供として扱わない。
それはアルと同じだった。
だが違いが一つあった。
アルには後に万座高原がある。
アレックスには何もなかった。
十八歳。
会社を立ち上げた。
投資は成功した。
企業価値は伸びた。
ニュースにもなった。
周囲は言う。
「天才だ。」
「成功者だ。」
「人生の勝者だ。」
アレックスは思う。
そうかもしれない。
でも。
楽しくはなかった。
ある夜。
一人でホテルの部屋にいた。
大きな窓。
高層ビル群。
高級スーツ。
何でも持っていた。
でも話し相手はいなかった。
スマホを見ても、 仕事の連絡しかない。
その時。
ふと思った。
「友達って何だろう。」
答えは出なかった。
十九歳。
結婚した。
周囲は祝福した。
新聞は理想的な結婚だと書いた。
だが式が終わった後。
ホテルの部屋で妻に言われた。
「あなた。」
「何?」
「今、幸せ?」
アレックスは答えられなかった。
人生で一番難しい質問だった。
娘が生まれた。
二年後には息子も生まれた。
抱っこした。
頭を撫でた。
でも。
距離があった。
どう接すればいいのか分からない。
父親のなり方を知らない。
家族の作り方を知らない。
だから仕事へ逃げた。
仕事なら分かるから。
やがて。
実家に電話しなくなった。
母から着信がある。
出ない。
父からメッセージが届く。
返さない。
帰る理由がなかった。
いや。
帰る勇気がなかった。
そして数年後。
スタンフォード大学。
共同研究先の責任者として会議室へ入る。
そこで弟と再会した。
アルだった。
昔の自分と同じ道を歩いているはずの少年。
だが何かが違った。
カフェ。
アレックスが聞く。
「人生は楽しいか?」
昔のアルなら答えられなかった。
しかしアルは即答した。
「前よりずっと。」
アレックスは驚く。
弟は笑っていた。
心から。
自然に。
自分にはできない笑い方だった。
アルがスマホを差し出す。
万座高原の写真。
祖父母。
真由。
桜井家。
みんな笑っている。
アレックスは写真を見つめた。
しばらく見つめた。
そして聞いた。
「そんなに楽しかったのか?」
アルは笑う。
「うん。」
「人生で一番。」
その瞬間。
アレックスは気付く。
会社を作った時も。
大学を卒業した時も。
結婚した時も。
子供が生まれた時も。
自分は一度も、 そんな顔で笑っていなかった。
アルが言う。
「帰ればいいじゃん。」
「どこに?」
「家に。」
「今さらだ。」
「今さらじゃない。」
アレックスは笑う。
「家族はそんな簡単じゃない。」
するとアルは即答した。
「違う。」
「なんで?」
「家族だから。」
アレックスは黙った。
長い間。
ただ黙っていた。
そして初めて思う。
成功したかったわけじゃない。
本当は。
帰りたかっただけかもしれない。
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