万座の夏、僕が僕を選ぶまで 外伝第二部 父親になる日
外伝第二部 父親になる日
― アレックス・神崎の再出発 ―
万座高原からロンドンへ戻る飛行機の中。
アレックスは窓の外を見つめていた。
祖父の言葉が頭から離れなかった。
「まだ間に合う。」
その一言が胸の奥で何度も繰り返される。
会社はある。
金もある。
名誉もある。
だが。
本当に欲しかったものは何だったのだろう。
ロンドン。
翌日。
アレックスは珍しく夕方にオフィスを出た。
秘書が驚く。
「本日の夕食会はどうされますか?」
「欠席する。」
「投資家との面談は?」
「延期してくれ。」
「急用ですか?」
アレックスは少し考えた。
そして答えた。
「娘と夕食を食べる。」
秘書は固まった。
そんな理由で予定を動かしたことなど、一度もなかったからだ。
自宅。
大きな屋敷だった。
しかし帰ってきても静かだった。
以前はそれが普通だった。
だが今は違う。
どこか寂しく感じる。
リビングへ入る。
娘のエマが床に座って積み木で遊んでいた。
二歳になったばかり。
アレックスは立ち止まる。
どう話しかければいいのか分からない。
するとエマが顔を上げた。
しばらく見つめる。
そして母親を見た。
「ママ。」
妻が優しく言う。
「パパよ。」
エマは首を傾げた。
分かっていない。
当たり前だった。
一緒に過ごした時間が少なすぎた。
その現実が胸に刺さる。
夕食後。
子供たちが眠ったあと、 妻が紅茶を持ってきた。
向かい合わせに座る。
妻が微笑んだ。
「何があったの?」
「何が?」
「万座高原で。」
アレックスは黙った。
少し考える。
そして答えた。
「弟に会った。」
妻はうなずく。
「アル君?」
「そうだ。」
「元気だった?」
アレックスは少し笑った。
「元気すぎた。」
「そう。」
「羨ましかった。」
妻が驚いた顔をする。
アレックスが誰かを羨ましいと言うのは珍しかった。
「アルが?」
「うん。」
「なぜ?」
しばらく沈黙。
そしてアレックスは静かに言った。
「笑っていたんだ。」
「すごく楽しそうに。」
「生きていた。」
「僕には出来なかった顔だった。」
妻は紅茶を置く。
「ねえ。」
「なんだ?」
「あなた、ずっと頑張りすぎてたのよ。」
「そうかな。」
「そうよ。」
「会社のため。」
「投資家のため。」
「従業員のため。」
「でも自分のためには生きてなかった。」
アレックスは否定できなかった。
翌週。
取締役会。
重役たちが集まっている。
アレックスは静かに言った。
「今後の働き方を変える。」
会議室が静まる。
「夜の会議は減らす。」
「週末は原則休む。」
「家族との予定を優先する。」
役員の一人が言った。
「利益が落ちます。」
「かもしれない。」
「競争に負けます。」
「かもしれない。」
「本当にそれで?」
アレックスは穏やかに答えた。
「それでいい。」
全員が黙った。
以前の彼なら絶対に言わない言葉だった。
数か月後。
休日。
アレックスは娘と公園へ来ていた。
エマが芝生を走る。
転ぶ。
泣きそうになる。
だがアレックスが手を差し出すと、 小さな手が握り返してきた。
「パパ。」
その一言で、 胸がいっぱいになった。
会社の成功より。
契約より。
投資より。
その一言の方が嬉しかった。
夜。
アルからビデオ通話がかかってくる。
「兄さん。」
「久しぶり。」
「どう?」
アレックスは笑った。
今度は作り笑いではない。
「今日は娘と公園へ行った。」
アルが吹き出す。
「兄さんが?」
「なんだその反応は。」
「だって信じられない。」
「失礼だな。」
二人とも笑う。
昔はこんな会話は出来なかった。
通話の終わり。
アレックスが聞いた。
「アル。」
「ん?」
「ありがとう。」
アルが首を傾げる。
「なんで?」
「お前が笑っていたから。」
「意味分からない。」
「そのままでいい。」
アルはさらに首を傾げた。
だがアレックスは笑っていた。
春。
ロンドンの公園。
息子が走る。
娘が笑う。
妻が手を振る。
アレックスはその光景を眺める。
昔の自分なら、 今頃オフィスにいた。
だが今は違う。
成功だけが人生ではない。
幸福とは、 大切な人と過ごす時間の中にある。
そのことを、 弟が教えてくれた。
そしてアレックスはようやく、 父親になる第一歩を踏み出したのだった。
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